神戸海軍操練所跡の発掘調査現場公開備忘録
先日、神戸海軍操練所跡の発掘調査現場公開に行ってきました。
神戸海軍操練所といえば、幕末、江戸幕府軍艦奉行の勝海舟の建言により幕府が神戸に設置した海軍士官養成機関です。
あの坂本龍馬や陸奥宗光が学んだことで有名ですね。

勝海舟が幕府に操練所の設置を進言したのは元治元年(1864年)5月のことでした。
海舟は、全国の若い志士を集めて「一大共有の海局」、つまり日本の海軍局の設置を構想していたといいます。
この構想は、広くアジアを取り込んで世界に雄飛する壮大なものでした。
海舟はまず、前年の文久3年(1863年)3月から9月まで、大坂の専称寺に海軍術を立ち上げ、門弟の佐藤政養を塾頭としていました。
この塾に坂本龍馬が同士を引き連れて入塾し、佐藤から海軍技術や語学を学んでいます。
やがて、幕府は畿内の海防強化を図るため、海軍操練所開設を決定します。
このとき、海舟の命を受けた龍馬が越前に行き、福井藩主だった松平春嶽から出資金千両の確約を取り付けたという逸話は有名ですね。



発掘された石材の一部が展示されていました。
Aタイプ、Bタイプ、Cタイプという表示は、矢穴の幅の違いです。
Aタイプがいちばん幅広く、元和~寛永期のものだそうで、Bタイプ、Cタイプとだんだん狭くなっていきます。
Bタイプ、Cタイプは江戸時代中期以降のもの。
幕末の神戸海軍操練所跡からAタイプの矢穴が見つかっているってことは、どこか別のところで使われていた石を再利用したってことでしょうかね?

西側から見た発掘現場です。
このすべてが神戸海軍操練所の遺構ではなく、ほとんどは明治時代の神戸港の遺構です。

現場でもらったパンフレットに載っていた明治時代中期の古写真を載せます。
上の発掘現場の左側の石垣が、この古写真の突堤の部分です。

ズームすると、第Ⅳ期防波堤とありますから、明治中期以降のもののようです。

ここでの区別は、
第Ⅰ期=神戸港開港以前(1868年以前)の遺構。
第Ⅱ期=神戸港開港時の築港遺構(明治初年)
第Ⅲ期=明治中期以前の遺構(神戸港第一波止場の修築整備)
第Ⅳ期=明治中期以降の遺構(神戸港第一波止場の拡張整備)
とのことでした。
ってことは、神戸海軍操練所の遺構は第Ⅰ期ってことになりますね。

ということで第Ⅰ期を探してみると・・・。

ありました。
中央に第Ⅰ期防波堤と書かれた立て札があり、その下に斜めに並んだ石列がありますが、あれが海軍操練所時代の石垣跡のようです。
その周囲に散らばっている栗石も、その裏込めに使われていた石のようですね。


ズームします。

木の杭はもっとのちの時代のもののようです。

せっかくなので他の時代の遺構も。

これは信号灯の土台跡のようです(第Ⅲ期)。
この下にも第Ⅰ期の石垣があると想定されるようですが、この信号灯の遺構を壊さないためには、ここは掘れなかったと学芸員の方がおっしゃってました。
そりゃそうだ。

もう少し北側に登ってきました。
上で見た第Ⅳ期防波堤と信号灯がはっきりわかりますね。

信号灯にズーム。

北側からさっき見た第Ⅰ期防波堤にズーム。

東側から見た第Ⅳ期防波堤。
迫力あります。
中に栗石が込められているのがよくわかりますね。

そして、東側に大きな穴が掘られていますが、その向こうに鏡があります。
そこに何が写っているかといいうと・・・。

第Ⅰ期防波堤の石垣です。
つまり、海軍操練所時代の石垣ですね。
さっき西側で見た石垣が信号灯の下を通って東側のこの石垣まで続いているわけですね。
間知石が見学者のいるところとは反対側を向いているため、こうして鏡で見えるように工夫してくれています。

パンフレットによると、第Ⅰ期の石積みは今のところ調査区内の3ヶ所で部分的に確認されていますが、26mほどが残存しているものと考えられているそうです。
この鏡に映った北東隅のものは残りがよく、間知石の上面を水平にそろえながら積み上げた布積みの工法による石積みで5段分を検出しており、高さは1.6mです。
石積みの傾斜角は40度~50度だそうです。

こっちの鏡に写っているもの第Ⅰ期のものです。
鏡の設置はありがたいですが、欲を言えば、出来れはもっと近くで直に見て観たかったなぁ。

発掘調査前、この場所には阪神高速道路株式会社のビルがあったのですが、その地底によくこれが破壊されずに残っていましたよね。
こういう発掘調査のあと、だいたいの場合は遺跡は破壊されてしまうのですが、今回のこの遺構は、すべてではないものの、できるだけ残す方向で検討中だそうです。

神戸海軍操練所は摂津国神戸村の総面積約1万7千坪の広大な敷地に建設され、運営費は年間3千両でした。
操練所では海舟が主任(所長)、津田近江守、松平勘太郎が会計と設計を担当。
練習生は公募で、畿内の旗本、御家人の子弟をはじめ西南雄藩の有能な藩士を募り、現在の生田神社近くで塾寮生活を送っていました。
塾生の数は、龍馬が姉・乙女に宛てた手紙によると2~300人はいたようです。
このほかに私塾の海軍塾(海舟塾)を併設し、その塾頭を坂本龍馬が務め、陸奥宗光、高松太郎、千屋寅之助、望月亀弥太らが入門していました。
ところが、その望月亀弥太が、元治元年(1864年)6月5日に起きた池田屋事件に加わっていたことが露見。
その責を問われて海舟は軍艦奉行を罷免され、翌慶応元年(1865年)3月9日に海軍操練所は閉鎖されました。
海舟は江戸への帰路に「世の中も我が身もいかになるみがた ひかた路遠く千鳥啼くなり」と無念さを詠んでいます。

発掘現場の北側にあるNTT前には、戦前の戦艦の錨を用いた「神戸海軍操練所跡碑」が建てられています。

本型の石碑の碑文は、以前の稿「坂本龍馬、勝海舟ゆかりの地in 神戸」の稿で紹介していますので、よければ。

神戸海軍操練所がこの地にあったのはわずか1年足らずという短い間でしたが、その後、慶応3年(1868年)のこの地に神戸港が開港され、日本を代表する国際貿易港として我が国の国民生活や産業基盤を支えていくことになるわけで、その神戸港発展の礎となったことは間違いありません。
また、この神戸海軍操練所がなければ、のちの坂本龍馬の亀山社中から海援隊につながる私設海軍・貿易会社は生まれていなかったでしょう。
とすれば、岩崎弥太郎の土佐商会から三菱財閥への発展もなかったかもしれませんね。
そう思えば、この神戸海軍操練所の歴史的存在意義は大きかったといえるでしょうね。
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by sakanoueno-kumo | 2024-01-23 20:34 | 神戸の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)
私も行きたかったんですよ。
もうちょっと、上物の遺構のような物が出てくるとよかったんですけどね。
でも、うらやましいです。
これは絶対行きたかったんで、マストで予約しました。
30分交代で2日間8回4にわかれての説明会でしたが(1回30人ぐらいかな)、あっという間に最終日の最終組しか空いてなかったですよ。
ふだん城跡の発掘調査説明会にもよく足を運びますが、ここまで盛況だったことは初めてです。
やっぱ、龍馬人気?
衰えませんね。