桜満開の善防山城を歩く。 その2 <東郭>
「その1」のつづきです。
善防山城主郭まで制覇したので、次は尾根伝いに東郭を目指します。

主郭東側の虎口跡。
一応、左へ曲がって右へ曲がる食い違い虎口になっています。

ここでまた縄張り図を載せます。

尾根道の中間地点にある削平地。
小さいですが、ここも一応は曲輪だったのでしょうね。

尾根道にも巨岩が点在しています。

磐座チックな巨岩が尾根道をふさいでいて、両側の細い道を通らされます。

東郭エリアに入ると、正面にドーンと現れた石積み。

おーーーーっ!
これは自然ではなく、明らかに積んでますよね。

石積みの裏側が虎口になっています。

曲輪の横から入って・・・。

曲がらされて曲輪に入ります。

東郭に着きました。

第二頂上という立札があります。

嘉吉の乱勃発後、兄の赤松満祐とともに播磨に帰った赤松則繁でしたが、幕府が差し向けた山名宗全を中心とする討伐軍に攻められ、兄の満祐が坂本城を捨てて城山城に籠ると、ここ善防山城も山名軍の手に落ちました。
その際、則繁の軍勢は地形を利用して全山の岩肌に油を含んだ竹の皮を敷き詰め、敵が滑って攻められないように工夫したはずでしたが、敵はその竹の皮に火を放ち、城は炎に包まれて落城したと伝わります。
この戦いはかなり凄まじかったらしく、明治初期までところどころに白骨が残っていたとか。

まったく同じ話が、同じく赤松氏の城である中道子山城にもあります。
そっちは100年以上あとの羽柴秀吉の播磨攻めのときの話ですが、中道子山城では白骨ではなく発掘調査で炭化した米が見つかったとか。
どっちも史実か、どちらかが間違いか、あるいはどっちもただの伝承か、今となってはわかりませんね。
竹の皮の話が実話かどうかはわかりませんが、戦による火災があったのは事実なんでしょうね。

東郭にも、やはり巨岩があちこちに点在しています。

一段下の削平地に降りてきました。
ここは東郭の腰郭のような場所かな?

東郭の切岸を見ると、巨岩が露出しています。

あっちも、こっちも。

やはりここは岩盤でできた山なんですね。

さらに下の削平地へ。

登りは大手登山道を選んだので、帰りは烏帽子岩コースで下山します。

少し下って西を見ると、主郭が見えます。

主郭にズーム。

下山道からの北側眺望。

ロープを伝って岩盤を降ります。
こわーーーっ。

眺望の開けたところから西側を見ると、山肌に岩盤が露出していますね。
やはり、善防山は岩山なんですね。

烏帽子岩が見えてきました。
たしかに烏帽子の形をしていますね。

えーぼーしーいわが遠くに見える♪

烏帽子岩まで降りてきました。

って、岩の側面をロープを伝って降りるって、怖すぎっしょ。

何とか下側に降りてきました。

と思ったら今度は藪道。


藪道を降りると、烏帽子の滝に出ます。

こんな橋を渡って。

何とか無事下山しました。

麓は桜が満開です。

兄の満祐は城山城で自害しますが、則繁は兄の命令で脱出して再起を図ることになり、室津から船で筑前守護の少弐教頼を頼って落ち延び、さらにその助けを得て李氏朝鮮に渡ったといいます。
朝鮮では一州にて暴れまわり、制圧する勢いだったといいますが・・・。
ほんとかなあ。

『東寺執行日記』によると、文安5年(1448年)1月、日本に帰国した則繁は、少弐教頼とともに肥前で大内教弘軍と戦うも敗れ、播磨に逃れるも、播磨はすでに山名宗全の領国だったためどうしようもなく、河内の畠山氏を頼ったといいます。
しかし、ほどなく幕府に潜伏先を知られてしまい、赤松家の再興と播磨の守護職返還の確約を得た甥の赤松則尚と細川持常の軍によって潜伏先の当麻寺を包囲されたため、自害して果てました。
享年49。
その首は京都に送られて晒されたといいます。

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by sakanoueno-kumo | 2024-03-26 22:35 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)