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嘉吉の乱後に赤松満祐が凱旋した播磨河合城(堀殿城)跡。

今回は兵庫県小野市にある河合城を歩きます。

堀殿城ともいいます。

ここも、播磨守護職の赤松氏が東播磨の拠点として築いたとされ、赤松氏一族の上月氏が城主を務めていました。


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現在、河合城周辺は田畑や住宅地になっていて、残念ながら往時をしのぶことはできません。

かつては東西約400m、南北約300の城域を有する東播磨屈指の大城郭だったそうで、幅約12m、高さ約3mの土塁と、幅約9m、深さ約3mの堀に囲まれた主郭は「源氏屋敷」と呼ばれ、その東と西側にも郭があったそうですが、昭和50年の圃場整備事業により、その遺構は惜しくも失われてしまいました。


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ここは、嘉吉元年(1441年)に起きた嘉吉の乱の際、赤松満祐が将軍足利義教をもって入城したと伝わる城です。


初代・赤松円心の孫にあたる赤松義則の時代に全盛期を迎えていた赤松氏でしたが、その義則の死後、家督を継いだのは嫡男の赤松満祐でした。

これまで、赤松氏は家督相続での内訌が生じず、親から嫡男へとスムーズに受け継がれてきており、そのことが、山名氏や大内氏のように幕府に付け入る隙を与えず、繫栄してきた要因ともいえました。

ところが、義則から満祐への相続をめぐって、暗雲が漂います。


事の発端は、4代将軍の足利義持が、満祐の家督相続を許さず、お気に入りだった側近の赤松持貞(満祐の又従兄弟)に与えようとしたことでした。

これに激怒した満祐は、京都の自邸を焼き払って領国の播磨へ下り、一族を集めて合戦の準備を始めました。

ところが、直後に持貞が義持の側室と密通していたことが露見し、持貞は切腹に追い込まれます。

そら、将軍の女に手を出したらアカンわなぁ。

持貞、節操なさすぎ!

でもこの事件、ちょっと胡散臭い気もしますけどね。

結局、満祐は義持に謝罪し、3カ国守護を安堵されます。


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足利義持が後継者を定めずに没すると、その後継者はクジで選ばれた弟の義教でした。

のちに「万人恐怖」と恐れられた義教ですが、当初は満祐との関係は良好だったようで、侍所頭人に任じられ、幕府内の長老格として権勢を振るいました。

ところが、やがて義教は後世に恐怖政治といわれる独裁政治を布きはじめ、有力大名を誅殺しはじめます。

この頃になると、満祐と義教の関係も急速に悪くなっていき、満祐の領国播磨・美作が没収されるという噂が流れ、また、満祐の家臣3名が義教によって殺害されました。

そして、永享12年(1440年)3月、満祐の弟の義雅の領土が没収され、一部が遠縁の赤松貞村(持貞の甥)に与えられるという事件が起きます。

また、同年9月には、満祐の侍所別当の職を罷免させられました。

満祐の側に何か落度があったわけでもなく、満祐の義教に対する憤懣が限界値に達したであろうことは想像に難しくありませんね。


嘉吉元年(1441年)624日、満祐は結城合戦祝勝会と称して嫡子の教康の宴の席を設けさせ、そこに義教を招きました。

招宴には、山名持豊(宗全)、細川持之、大内持世といった諸大名も招かれていました。

満祐が主催しなかったのは、義教を油断させるための策だったのでしょうか?

その宴の最中、突如として甲冑姿の武者十数人が乱入し、あっという間に義教を斬殺します。

世に言う「嘉吉の乱」の勃発です。


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義教殺害後、管領・細川持之をはじめ諸大名達は邸へ逃げ帰ると、門を閉じて引きこもってしまいました。

彼らは、満祐がこれほどの一大事を起こした以上、必ず仲間がいるだろうと考え、形勢を見極めていたようです。

ところが、実際は満祐ら赤松一族の単独犯行だったんですね。

満祐らはすぐに追手が来るだろうと考え、屋敷で自害するつもりだったようですが、夜になっても幕府軍が押し寄せる様子はなかったため、領国の播磨に帰って抵抗することに決め、その後、屋敷を焼き払い、京を離れました。

これを妨害する大名は誰もいなかったといいます。


満祐らは何事もなく悠々と播磨に帰国しました。

赤松氏の配下の者たちは、歓喜に沸いたといいます。

このとき満祐によって持ち去られた教の首は、摂津国中島に運ばれて供養したのちに京都に送り返されたとも、播磨国まで持ち帰って葬儀を行い葬ったとも言われます。

後者の説が正しければ、ここ河合城に将軍・教の首を持って凱旋したことになりますね。

同じく東播磨にある安国寺には、教の首塚と伝わる宝篋印塔があります。

また、別稿にて紹介します。


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河合城に立ち寄った満祐は、本城の坂本城に入りました。

次稿は坂本城です。



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by sakanoueno-kumo | 2024-04-05 11:02 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)

 

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