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中世の播磨国守護所・書写坂本城跡

兵庫県姫路市のお城といえば、誰もが思い浮かべるのは世界文化遺産姫路城ですが、戦国時代より前の15世紀には、姫路城の少し北西に位置する坂本城が播磨国の守護所でした。

現在は土塁の一部だけが残っています。


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坂本城は書寫山南麓の段丘端の平地に立地する平城で、築城時期は定かではないものの、15世紀初頭から播磨国守護所としての機能を持ち、政治の中心地でした。

城域は方形平面を基本とし、東西170m、南北170あったようです。

方形平面を基本とする平城としては、播磨では突出した規模でした。

昭和56年(1981年)から発掘調査を行い、東側の井戸、土塁の構造技法などが確認されたそうで、東西に二重の堀切があったことも分かったそうです。

備前焼のすり擂鉢土師器の皿などが出土しています。


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嘉吉元年(1441年)624日、赤松満祐が将軍足利義教謀殺するという事件(嘉吉の乱)を起こして播磨に凱旋すると、まず、前稿で見た河合城(堀殿城)に入城し、続いて本城であるここ坂本城に入りました。

ここで満祐は足利直冬の孫とされる足利義尊を新将軍に奉じ、幕府と対立する姿勢を見せます。


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強力な独裁者だった義教が突然殺されたことで混乱した幕府方は初動が遅れたものの、事件から半月ほど経った7月11日、細川持常を中心とした赤松討伐軍が京を発し、一方で、山名持豊(宗全)ら山名一族が、京都から丹波を経て但馬を抜けて播磨に攻め込む軍を整えます。

その後も幕府軍はトラブル続きで歩調が合わず、なかなか進軍が進みませんでしたが、8月中旬にようやく戦いの火ぶたが切られます。

『建内記』嘉吉元年八月十四日条によると、美作の垪和(はが)右京亮が赤松氏の勢力に攻め込まれ、城衆は火を放って逃げだしたといいます。

備前では幕府方の松田氏勝田氏が一旦は赤松氏の軍勢を追い払ったものの、再び合戦になると赤松勢が押し返し、幕府方は退却しました。

戦いの序盤は赤松方が優勢だったようです。


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ところが、8月19日に淡路守護の細川持親の率いる幕府軍の軍船が塩屋関を焼き払って攻め込むと、西からは山名教清の軍勢が美作に攻め込み、赤松氏の軍勢を退けました。

この敗戦をきっかけに、赤松氏は劣勢に追い込まれていきます。

『建内記』嘉吉元年九月五日条によると、山名持豊(宗全)坂本城を攻略したとあります。

満祐、教康父子は坂本城に籠っていましたが、山名宗全率いる幕府軍に攻撃されたため、ここ坂本城を捨てて城山城へと逃れました。

坂本城落城の結果、赤松氏に従っていた多くの国人が降参、離反したようです。

城山城は標高458mの険峻な亀山山頂に築かれた防御力に優れた山城でしたが、城域も巨大で、守るには多くの兵が必要でした。

ところが、城山城に籠った満祐らに従うか家臣たちは少なく、もはや城を守る力はなかったと想像します。


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910日、山名軍は城山城に総攻撃を仕掛け、瞬く間に落城

満祐は城内で自害したと考えられ、その首は燃え盛る城内で山名教之が見つけ出し、持ち出されました。

その後、満祐の首は京都に運ばれ、義教の遺児に見せられたのち、921日に四条河原で晒されました。


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嘉吉の乱の発端となった赤松貞村は幕府軍に属していましたが、城山城の落城後、陣中で突然死んだといいます。

落馬したとも、誰かに討たれたとも伝わりますが、貞村は今回の一件が落着した折には播磨守護職を望んでいたといい、そのため、その死をめぐっては多くの噂が流れたといいます。


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満祐の弟の義雅は、同族で幕府軍に従っていた赤松満政の陣に出向いて降参しましたが、縁座は逃れられないと観念し、嫡子の千代丸を満政に託して切腹します。

満政は千代丸の命は奪いませんでした。

この千代丸がのちに赤松時勝となり、その息子が赤松氏再興を図ることになる次郎法師丸こと赤松政則となるのですが、それはまたのちの話。

ともあれ、こうして赤松氏一族は守護としての地位を失い、一旦歴史上から姿を消してしまいます。

ここ坂本城も、その後の記録が残っていないことから、おそらく廃城となったのでしょう。




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by sakanoueno-kumo | 2024-04-08 17:38 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)

 

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