龍野古城(鶏籠山城)攻城記 その2 <Ⅰ郭>
「その1」のつづきです。
龍野古城Ⅰ郭エリア南側虎口から段曲輪を登ります。

Ⅰ-3郭切岸に、立派な石積みが残っています。

おおっ、これはスゴイ!

石積みの上のⅠ-3郭に上がると、「矢竹」と書かれた看板が。
ん?・・・どれが矢竹?

Ⅰ-3郭から見たⅠ-2郭切岸。

ここにも石積み跡が残っています。

ここで縄張り図を載せます。
縄張り図引用・加筆:『近畿の城郭Ⅲ』
発行所:戎光祥出版

Ⅰ-2郭に登ってきました。
石がゴロゴロ散乱しているのは、かつての石積みの痕跡でしょうか?

Ⅰ-2郭から主郭への虎口跡です。

その横には明らかな石積み跡があります。

虎口を上から。
左右に石列らしき痕跡が見られます。

主郭です。
主郭はⅡ郭より広いですが、それほど大きな曲輪ではありません。
櫓台のような遺構も見られません。

龍野古城は、明応8年(1499年)に赤松村秀によって築かれたことにはじまります。
赤松氏の本家筋ではありませんが、以降、政秀、広貞、政広(広秀)と赤松氏が4代78年続きました。
2代政秀は本家の置塩城主・赤松晴政の娘を妻としており、晴政が嫡子の義祐と対立すると、政秀は置塩城を追われた晴政を、ここ龍野城にて一時保護していたといいます。
しかし、庇護していた晴政が病死すると、一旦は義祐と和睦するも、良好な関係は築けず、やがて本家とは別の独立した勢力を西播磨で確立していきます。

そして、ちょうどそこの頃幕府権力を取り戻すべく協力を要請してきた足利義昭の誘いにのり、義昭が征夷大将軍となると、政秀は自身の娘を義昭付きの侍女として側仕えさせようと京へと向かわせました。
これに不快感をあらわにしたのが、本家の義祐でした。
義祐は政秀が将軍と懇意になることで、播磨の守護職を簒奪しようとしていると危惧したようです。
まあ、そう思って当然だったでしょうね。
義祐は家臣の小寺政職に命じて上洛途上の政秀の娘を抑留させ、同時に備前の浦上宗景に龍野城攻めを命じます。
浦上宗景はこれを受けて播磨侵攻を開始します。

永禄12年(1569年)2月、政秀の娘は無事京に辿り着きましたが、浦上の攻勢はつづき、たまりかねた政秀は足利義昭に救援を求め、これを受けた義昭は織田信長に播磨出兵を要請しました。
信長は池田勝正ら摂津国衆を中心とした軍団を派遣し、これに東播磨の別所安治らも加わり、播磨の義祐領に攻め込みます。
そして、織田勢が義祐の置塩城を攻略しかけると、一転して優勢になった政秀は、小寺政職の御着城の支城の一つで黒田職隆・孝高親子の守る姫路城の攻略を目指して兵を動かします。
ところが、姫路城の西の青山まで行軍したところで、黒田官兵衛孝高の奇襲に遭い、大敗北を喫します(青山の戦い)。

一度は撤退を余儀なくされた政秀でしたが、同年6月、ふたたび3000の兵を率いて進軍し、小丸山に布陣しました。
迎え撃つ黒田軍は、夢前川東岸にある土器山に陣を張るのですが、今度は、官兵衛が動く前に、先に赤松軍が奇襲をかけました。
この急襲で黒田軍は壊滅寸前まで追い込まれます。
その後、官兵衛は父の黒田職隆や英賀城主の三木道秋の援軍を得ますが、このまま防御一辺倒では、兵の数で劣勢の自軍に勝ち目はないと考えた官兵衛は、敢えて体力の回復していない兵に出撃命令を出し、夜襲に打って出ます。
これがまたまた成功するんですね。
昨夜の戦いで黒田軍は甚大な被害を受けて、すでに攻撃する力など残っていまいと油断していた赤松軍は、黒田軍の奇襲を受けて大パニックに陥り、逃亡する兵が相次いだといいます(土器山の戦い)。
まさしく、進みて禦(ふせ)ぐべからざるは、その虚を衝けばなり・・・ですね。

この青山・土器山の戦いは、NHK大河ドラマ『軍師官兵衛』でも描かれましたね。
黒田官兵衛という名が歴史の表舞台に名乗りを上げた戦でした。

軍事的な抵抗力を失った政秀は浦上氏の前に降伏を余儀なくされ、永禄12年(1569年)11月に降伏。
西播磨における覇権を失い、その1年後の元亀元年(1570年)11月12日、浦上宗景の手のかかった人間に毒殺されたといいます。

主郭で昼食タイム。
余談ですが、この日、わたしはスーパーで弁当を買って持って行ったもののお箸をもらい忘れ、リュックのなかにあった爪楊枝2本で食べました(苦笑)。

主郭の北側に降りてきました。
これは北側の虎口跡かな?

その両サイドには、また石積み跡が。
裏込め石も確認できることから、石垣と言ってもいいかもしれません。

ここには、しっかり出隅石垣が残っています。
微妙に算木積みをやろうとしている痕跡がわかりますね。

その出隅石垣の向かい側には、かつて八幡宮があったようです。
八幡宮本体は今は「城山八幡宮」として麓の龍野神社の境内に遷されています。

その八幡宮の参道跡と思われる石畳も残っています。

主郭東側にも出隅石垣と思われる痕跡が。

その向かいには石段跡があります。

石段の下に降りてきました。
立て札には「古城石段」とあります。
主郭周りだけで長くなっちゃいました。
「その3」につづきます。
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by sakanoueno-kumo | 2024-04-17 09:46 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)