龍野古城(鶏籠山城)攻城記 その3 <搦手道~>
「その2」のつづきです。
龍野古城Ⅰ郭エリア北側から、搦手道を下山します。

Ⅰ-8郭まで降りてきました。
ここは主郭並みに広い曲輪です。

縄張り図を載せます。
縄張り図引用・加筆:『近畿の城郭Ⅲ』
発行所:戎光祥出版

Ⅰ-8郭北側の虎口。

虎口の下に降りると、立派な石積みが。

喰い違い虎口になっています。

喰い違い虎口の向かって右側。

向かって左側は大きな隅の石積みが。
立派な台形の石積みになっています。

虎口を出ると、Ⅰ-9郭に向かうスロープになっています。

スロープを下って下から見た導線。
ここも虎口になっているのでしょうか?
とすると、上の虎口とともに2重虎口ってこと?

虎口の石積み。

Ⅰ-9郭に降りてきました。

正面に見えるのはⅠ-8郭切岸。

Ⅰ-9郭から北側を見下すと、さらに段曲輪は続いています。

Ⅰ-9郭東の竪堀。
ロープが張っていて降りれません。

Ⅰ-9郭北側の虎口を出ます。

搦手道を下ります。

少し下ると、「竪堀」と書かれた立て札が。

たしかに竪堀。

ここで城域は終わり。
あとはひたすら下ります。

三濃山と鶏籠山の分かれ道となる「両見坂」まで下りてきました。

説明板が設置されていました。
こっちから登る人もいるでしょうからね。

両見坂石灯篭だそうです。
説明板がなかったので、歴史的背景は不明。

紅葉谷方面に向かって谷筋を下山します。

ここからは、麓の遺構がつづきます。
最初に出てきたのは鳥ヶ撓番所跡。

土塁っぽい遺構もあります。

広い。

井戸跡がありました。

中をのぞいてみると、石積み!

井戸の周囲も石積みの痕跡が見られます。

「侍屋敷の蹲い」とあります。

これがその蹲いのようです。

その並びには石積みが。

このへんの下山道を紅葉谷というそうです。
読んで字のごとく、紅葉が綺麗なんでしょうね。
ここを訪れたのは令和
3年(2021年)11月6日。
あと半月遅く来たら、見事な紅葉が観れたでしょうね。

青山・土器山の戦い後に父の赤松政秀が毒殺され、兄の赤松広貞の早世したため、弟の赤松政広(広秀)が幼くして龍野城主となりました。
しかし、この頃になると播磨は織田信長の勢力が拡大し、天正5年(1577年)、信長の命によって播磨に侵攻してきた羽柴秀吉に攻められ、政広は最初は抵抗するも、やがて降伏。
城を明け渡して蜂須賀正勝の配下となります。
その後、龍野城は蜂須賀正勝に与えられました。
開城から正勝入城までの間、龍野城がどうなっていたかは定かではありませんが、一説には秀吉の家臣の石川光元が城代を務めていたとされ、この時期に不便な山の上から麓へと城主の居館が移されたといいます。

城を明け渡した政広は、信長の死後も秀吉に従い、中国大返しや九州平定、さらには小田原平定、朝鮮出兵などにも参戦し、姓を斎藤と改め、竹田城主となりました。
しかし、秀吉の死後、関ヶ原の戦いでは石田三成に味方して西軍に与し、田辺城の戦いに参戦。
その戦後、徳川家康から切腹を命じられ自刃します。
享年39。

下山しました。
麓から龍野古城を見上げます。
山城はこれで終わりですが、次は麓の近世龍野城を見学します。
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by sakanoueno-kumo | 2024-04-19 15:11 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)
















