毛利氏の本拠・吉田郡山城攻城記 その1 <毛利元就墓所>
戦国時代、中国地方の覇者として君臨した毛利氏の本拠として知られる吉田郡山城。
江の川(可愛川)と多治比川にはさまれた吉田盆地の北に位置し、城域は郡山全体におよびます。
築城初期は砦のような小規模な城だったと考えられていますが、毛利氏の勢力拡大とともに拡張され、毛利元就の時代には郡山全体を要塞とする巨大な城郭となりました。
のちに毛利輝元が広島城を築いて移るまで、長らく毛利の本拠となっていた城です。
麓の郡山城址碑と説明板。
郡山城といえば、奈良の大和郡山城をはじめ、岩手県、福島県、大阪府、島根県、鹿児島県など複数の同名城が存在しますので、ここは吉田郡山城で通します。
その説明板。
説明板の横には、毛利元就像が。
なかなか凛々しい!
登山口の公園です。
向こうに見える山が郡山。
山頂は標高390m、比高約190mの登山です。
公園内を登っていくと、登山口手前に堀跡があります。
説明板には、内堀(薬研堀)とあります。
約100mの断面V字形の堀を検出したそうで、薬研堀の発掘調査例では国内で最も長いそうです。
また、同じ場所で旧石器時代の遺跡も見つかっているそうです。
登山口にある案内図。
登山口には鳥居があり、その横の石碑には「毛利元就公墓所参道」とあります。
登り始めて間もなく、石鳥居と毛利元就の墓と刻まれた石碑が現れました。
石碑は昭和29年のもののようです。
説明板には、「洞春寺跡」とあります。
洞春寺は、毛利輝元の三回忌にあたる天正元年(1573年)に菩提寺として孫の輝元が創建した寺院で、輝元の広島移城の際に広島城下に移り、のちに減封となった毛利氏とともに山口に移転したそうです。
墓地の図面もあります。
元就以外も一族の墓があるようです。
こちらにも一族の墓所の説明板が。
その横には、毛利元就公四百年祭記念碑があります。
こちらが、その一族の墓。
鉄柵の扉には「一文字三星」が。
玉垣に隠れて墓碑が見えませんが、ここには元就の兄の毛利興元の墓、その子の毛利幸松丸の墓、毛利隆元夫人の墓があります。
興元と幸松丸が相次いで死去したことで、元就にお鉢が回ってくることになるんですよね。
毛利隆元は元就の嫡男ですが、その奥さんのことは知らないなぁ。
つまり、輝元のお母さんってことですよね。
一族の墓の北側の一段高いところに、元就の墓があります。
なんか、すんごい倒木が行く手を阻んでいるんですが。
説明板です。
洞春寺は広島城築城に伴って移転しましたが、元就墓所はこの場所に残され、その後、長州藩や浅野氏によって保護、整備されてきたとあります。
ここもまた鉄扉に「一文字三星」がありますね。
元就の墓です。
立派な五輪塔でもあるのかと思いきや、細長い石碑と中央に大樹があるのみ。
説明板によると、高さ0.9mほどの低い墳丘の中央に墓標樹ハリイブキが植えられたそうですが、文政12年(1829年)に墓を訪れた頼山陽が漢詩「吉田駅詩」にすでに枯れていることを詠んでいるそうで、現在はのちに育ったシラカシが支えるかたちでかろうじて樹立しているそうです。
石碑を拡大すると「贈従三位大江朝臣元就卿御墓」と刻まれています。
こちらの石碑には「明治四十二年四月二日」とあります。
明治42年に従三位が贈られたってことかな?
何で死後300年以上経った明治の世になって元就に従三位?・・・って思っちゃいますが、いわゆる明治政府=薩長閥政府。
政治的理由があったのでしょうね。
毛利と島津は華族のなかでも特別ですから。
元就の墓所と対面するように建てられてあるのが、「百万一心」碑です。
百万一心とは、元就が「百」の字を「一」「日」に分け、「万」の字を「一」「力」に分け、「一日一力一心」と読み、「日を同じうにし、力を同じうにし、心を同じうにする」と説き、家臣に「一致団結」「協力」の精神を諭したと言われる逸話です。
吉田郡山城の改築の際、人柱に代えて、本丸裏手の「姫の丸」(姫丸壇)にこの句を彫り込んだ石を埋めたところ、普請は無事に終えられたと伝わります。
この石碑は、文化13年(1816年)に長州藩士だった武田泰信が姫の丸で発見したとされます。
その由来碑。
元就の墓所をあとにして、城跡へ向かいます。
少し登ると、またまた宝篋印塔が。
説明板には、嘯岳鼎虎禅師の墓とあります。
洞春寺を開山した僧侶で、元就の葬儀の導師をつとめた人ですね。
墓参りばっかでぜんぜん先に進みませんが、長くなっちゃったので、つづきは「その2」にて。
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by sakanoueno-kumo | 2024-05-14 22:31 | 広島の史跡・観光 | Trackback | Comments(6)
お返事遅くなってすいません。
せっかくですから、非公開コメントじゃなくいただきたいです。
此の大文字は安芸国高田郡吉田の郡山古城跡より出たるものなり、
文化13年の夏 おのれ泰信 郡山に登りける時 道の案内する者 吉田の住人 堺屋序平のいへるには天艸陣の後 公儀より諸国古城など崩されける時 一番に郡山古城跡を崩され姫丸檀と云所に石垣の中より大文字彫たる石 出たり 大方 此山の石は我人所望したるに夫のみは文字有故に崇りもやせんと 手ふるゝ者なくて下の段に除たりと聞て 床しさに嶮き山の道なきを踏おり 茂る小笹分つゝ辛じて其處に到みれば 幅二尺員六尺ばかりの石ありけり むしたる苔をはらひまみれたる土を洗ひおとしたるに大文字百万一心と彫たる知ければ嬉しくて紙に寫し取りぬ 按ずるに御城守護の心柱に置れたるものならむ と前の初の所に紙に寫したる大文字を其儘 前に書出せる處なり 誠に御名将元就公の いまだうつし身に ましますほど十一州の御大守の古城成故 一番に崩されしは かくあるべき事也、
尊き大文字の出たるも皆々御武威大徳の末世に到まで残所にぞありける さすれば歳月をしうつるに連れ知る人もなくなり なんと素より しらしめす所なれば山口野田に鎮ります豊榮神社に奉りけるになむ。
八十二翁 武田 泰信 敬白
口碑の伝うる所によれば 毛利元就 郡山築城の際 鎮護の儀に代えるの意を以て姫丸壇の礎石に百萬一心の文字を刻し之を埋めたりと蓋百の字 特に一劃を省き 一日とし万の字故らに略字に従う故に之を分解すれば一日一力一心となる 則ち日を一にし 力を一にし 心を一にし 衆以て事に當らば百事就らざるなく 城守の法 亦 この外に出でざることを寓せしならん 其礎石 今 所在を逸すと雖も 文化十三年夏 長州藩士 武田泰信なる者 郡山城趾に登り この石を見欣喜措く能はず 其の文字を模写し帰り山口豊栄神社に奉納したるもの現存す 本碑は則ち之に因りて作製したるものなり
江戸時代に長州藩士が墓参りに来たとかいう記述があったような。私が行った頃はまだ、デジカメの時代ではなかったので、写真も何も残っておらず。