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毛利氏の本拠・吉田郡山城攻城記 その3 <三ノ丸、二ノ丸、本丸>

「その2」のつづきです。

吉田郡山城三ノ丸へ登ってきました。


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石碑には「三之丸跡」と刻まれています。

「本丸・二ノ丸・三ノ丸」という呼称は豊臣時代以降の言葉で、中世の山城には適していないのですが、説明看板がそうなっているので、便宜上ここでもその呼び方でいきます。


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その説明板。


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ここで、全稿でも見た縄張り図を載せます。


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三ノ丸は城内で最大の曲輪で、東西45m、南北47の広さがあります。


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曲輪内は土塁や削りだしなどで4に分かれています。

西の段東の段を仕切る石塁跡です。


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しっかり石積みが残っていますね。


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仕切り石塁を中央に、西と東に分かれています。


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引きで見るとよくわかりますね。


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三ノ丸南東と御蔵屋敷下段に続く帯郭との間には、石垣の痕跡がかろうじて残っています。

城内の石垣は江戸時代にほとんど崩されてしまいましたが、ここだけはわずかにとどめています。


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その説明書き。


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よく残っていますね。


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三ノ丸西の段へ向かう石段

これも、よく残っていますね。


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枡形虎口っぽい形状が見られます。


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振り返るとこんな感じ。


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三ノ丸西の段です。


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土塁跡とあります。


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その土塁


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三ノ丸西の段から見た本丸切岸


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二ノ丸へ登ります。


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二ノ丸虎口


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二ノ丸です。


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石碑と説明板。


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二ノ丸の規模は東西36m、南北20の広さです。


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二ノ丸にも石が散乱しています。

かつての石垣の痕跡でしょうか?


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本丸方向を見ると、段曲輪になっていることがわかりますね。


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まずその下の段に登ってきました。

ここは本丸下段というべきでしょうか?


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説明書きです。

本丸はい一辺35mの方形の曲輪で、北端には一段高くなった櫓台があります。


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毛利氏の本拠として知られる吉田郡山城は、14世紀半ばに毛利時親によって築かれたといわれ、16世紀中ごろに毛利元就によって全山要塞化され、戦国期最大級の山城となりました。

吉田の地と毛利氏との関係が始まったのは、南北朝時代の延元元年/建武3年(1336年)に毛利時親が地頭として入ってからだと考えられています。

しかし、その頃の城はのような小規模なものだったようです。


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毛利氏が大きく変わったのは、明応6年(1497年)に誕生した毛利元就によってでした。

次男であったため家督を継ぐ予定ではありませんでしたが、父の毛利弘元、兄の毛利興元が相次いで亡くなり、まだ9歳だった甥の幸松丸も死去。

元就の手に家督が転がり込んできます。

それまで元就は吉田郡山城の支城である猿掛城にいましたが、家督相続を機にここに移ってきました。

このとき「郡山城」という呼称が史料に初めて登場しています。


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櫓台切岸です。


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櫓台に上がってきました。

櫓台は長さ23m、幅10の広さです。


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毛利氏を継いだ元就は城の改修に着手。

城域を郡山全体に広げ、城内に子の隆元や重臣らの居館を設けました。

戦時に城内に籠るだけではなく、平時には居館として用いる城にしました。

それが、大小270にもおよぶ曲輪の数々だと考えられます。


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ここ櫓台の上には、おそらく見張用の物見櫓が置かれていたのでしょう。

その後、元就の孫の輝元の時代には、三重三階の天守が築かれたとも言われていますが、史料に乏しく定かではありません。

江戸時代に作成された『吉田郡山城下古図』には本丸に三重天守が描かれていますが、これは想像で描かれたものだとうとの見方が定説になっているようです。


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櫓台上から見下ろした本丸下段、その向こうに二ノ丸も見えます。


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さて、本丸まで制覇したので、昼食をとって、次は南西の勢溜の壇を通って下山します。

「その4」につづきます。




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by sakanoueno-kumo | 2024-05-27 10:21 | 広島の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)  

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