毛利氏の本拠・吉田郡山城攻城記 その5 <旧本城・興禅寺跡・毛利元就火葬場跡・毛利隆元の墓・>
「その4」のつづきです。
尾崎丸から少し南下すると、「旧本城」と書かれた誘導看板が現れます。

毛利氏の本拠として知られる吉田郡山城は、14世紀半ばに毛利時親によって築かれたといわれ、16世紀中ごろに毛利元就によって全山要塞化されて巨大な山城となりましたが、時親の築城初期は砦のような小規模な城だったと考えられています。
その場所が、旧本城跡のようです。

ここでまた縄張り図を載せます。

尾根道を南東に進みます。

これは堀切かな?

この堀切は大きくて深い!

堀底に降りてきました。

切岸を登ります。

旧本城跡です。
ここもいくつかの段曲輪で形成されているようです。

ここが旧本城跡の本丸のようです。

説明板です。
最高所の本丸を中心に300mにわたって東方向に階段状に曲輪が伸びている単純な構造です。
戦国時代初期の山城の形態といえます。

説明板内の写真を拡大。
東側に突き出した急峻な尾根上にあったことがわかりますね。

説明板内にあった縄張り図。
本丸、二ノ丸、三ノ丸など16の曲輪で構成されています。

本丸はそこそこ広い。


土塁も少し見られますね。
尼子氏と戦った吉田郡山城の戦いの際、毛内元就が立て籠もったのはここ旧本城ではないかと推定されているそうです。

本丸から東を見下すと、絵に描いたような段曲輪が伸びています。

旧本城跡をあとにして、下山します。


展望台のようなところまで降りてきました。
どでかい「一文字三星」の幕が。


そこからの眺望です。

麓まで下りてきました。
何か庭園跡のような公園があります。


説明板によると、ここは興禅寺という寺院跡だそうで、永禄10年(1567年)、毛利元就は京都から能役者観世太夫宗節ら一座を招き、この寺で能狂言を催したと記録にあるそうです。


説明板によると、NHK大河ドラマ「毛利元就」が放送された平成9年(1997年)に、毛利元就役の中村橋之助さんがこの地に「もみじ」「さるすべり」を記念植樹されたそうです。


毛利元就火葬場跡がありました。

「その1」で、登山道にあった毛利元就と一族のお墓を参りましたが、麓には、一族の墓とは離れて毛利隆元の墓がありました。
隆元は元就の長男で、次男の吉川元春、三男の小早川隆景の兄にあたります。
有名な三本の矢の逸話の三兄弟ですね。


こちらが隆元の墓。
天文15年(1546年)、24歳で家督を継いだ隆元でしたが、依然として実権は元就が持ち続けていたといわれます。


永禄6年(1563)、尼子攻めのため出雲へ出陣途中の佐々部(高宮町)で急死。
死因は食中毒とも毒殺ともいわれますが、定かではありません。
ただ、このとき隆元に近侍していた赤川元保は元就の意向によってのちに誅殺されており、隆元の急死と何らかの関係があったのかもしれません。

隆元の死によって家督は嫡男の幸鶴丸(のちの輝元)が継ぎますが、若年のために元就が実質的な当主として主導権をなおも握り、元就の死後は、吉川元春と小早川隆景のふたりの叔父が輝元を支える毛利両川体制となるわけですね。

最後に、近くにある三矢の訓跡碑。
毛利元就の有名な逸話「三本の矢」を記念し昭和32年に建てられた石碑だそうです。
元就の三本の矢の教えについては有名すぎる話ですが、簡単にいうと、隆元、元春、隆景の3人の息子に対して、1本の矢は容易に折れるが、3本まとめてでは折れにくいことから、一族兄弟の結束を説いた教えですね。
もっとも、無粋なことをいうと、これは史実ではなく、元就が発した三子教訓状が元となった逸話で、教訓状には一族の結束は説かれているものの、矢に関する記述はありません。
まあ、よくできた話ではありますけどね。

他方、最近では、この逸話をベースに何とかミクスとか言ってデフレと景気低迷脱却の政策を図った総理大臣がいましたが、あの方も毛利家のお膝元出身でしたね。

吉田郡山城は元就から隆元、輝元と継承されましたが、山城としての限界を感じたことから、天正17年(1589年)より新たに広島城の築城を開始し、2年後には広島城へ居を移し、吉田郡山城はその役目を終えました。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後、毛利氏は大幅に所領を削られて周防・長門へ移り、その後、江戸時代初期に廃城となって建物や石垣は壊され、堀も埋められました。
それから300年以上が過ぎた昭和15年(1940年)、城跡が国の史跡に指定されました。


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
↓↓↓
by sakanoueno-kumo | 2024-06-19 21:08 | 広島の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)
返信遅くなって申し訳ありません。
今年は大河ブログをやっていないもので、ブログを開く頻度が少なく・・・。
ここは山全体の巨大城ですから、全部くまなく見て回ろうとすれば、1日では無理かもしれないレベルです。
わたしも、全部は見れませんでした。
















