国宝天守の松本城を歩く。 その1 <天守群外観>
過日、仕事で長野県に出張の機会があったのですが、せっかく長野県に来たので、1日主張を延長して、まだ行ったことがなかった松本城まで足を伸ばしました。
松本城は言うまでもなく、日本に五か所しかない国宝天守が残るお城ですね。

ということで、いつもなら外側から舐め歩いていくスタイルですが、今回は映え狙いで天守外観をトップに。
松本城といえばここで撮影といった場所からの天守です。

赤い橋は埋橋、その橋を渡ったところにある石垣の門跡は埋門です。
もっとも、往時の埋橋の構造は資料が残っておらず、現在の橋は昭和30年(1955年)に観光用に架けられた橋だそうです。

左側の乾小天守と右側の大天守が渡櫓で連結されています。
この乾小天守と大天守、実は築かれた時代が違います。

天正18年(1590年)、豊臣領となった松本の地に入った石川数正・康長父子は、ただちに城の大改修を実施します。
数正が病没すると、工事は嫡男の康長に引き継がれました。
『信府統記』によれば、「天守ヲ建テ惣堀ヲ浚ヒ幅ヲ広クシテ岸ヲ高クシ石垣ヲ築キ」とあり、このとき石垣と天守を持つ近世城郭が築かれたことがわかります。
現存天守は、新式の層塔型です。
層塔型天守の誕生は、1600~15年までの慶長の築城ブームのときで、石川数正・康長父子が入城した1590年代にはまだなく、当初は望楼型だったと考えられます。
では、現在の層塔型天守は、いつ建てられたのか。

現在の天守は、二重目の屋根が大きいために屋根裏階が存在します。
屋根裏階は旧式の望楼型天守によくある構造であり、さらに、当初は最上階に廻縁をめぐらす設計だったことが解体修理で判明したそうです。
そういった建築史の流れで見ていくと、慶長10年(1605年)前後の完成と考えられるようです。

慶長18年(1613年)、石川康長は突如として所領を没収され、豊後佐伯に流罪となりました。
その理由のひとつに、「分不相応の城郭建設」があります。
関ヶ原の戦い後に加増された旧豊臣恩顧の大名たちが次々と巨大な天守を築いたため、石川氏もその流れに乗って巨大な五重天守を築いたのでしょう。
ところがそれが仇となったんですね。
その後、新しい天守を建てる際、創建天守の部材は乾小天守の部材として利用されたようです。
こうして、創建天守と新天守が渡櫓で結ばれて並び立つことになりました。

天守台石垣は高さ6.6mで、反りがほとんどないのが特徴的ですね。

南側から見た大天守。
西面から見たときは三重目に千鳥破風がただひとつという意匠で、石落としと狭間で武装した無骨な外観でしたが、南面は唐破風と千鳥破風を施していて表情豊かに見えますね。
その右横に続いているのが辰巳附櫓、右端の朱塗りの廻縁があるところが、月見櫓です。
寛永10年(1633年)、徳川家康の孫にあたる松平直政が松本に入り、天守が修築されました。
このとき、辰巳附櫓と月見櫓が新たに付設され、現在に見られる5基の形が完成しました。

内堀に沿って南東に移動しました。
こっちからの角度もよく見るロケーションですね。

その東側に伸びる石垣の上には、今は何もありませんが、かつては土塀か多門櫓があったのでしょう。

内堀南西に架かる土橋。
その向こうに見えるのは、本丸正門の黒門です。
黒門は本丸に対して凸型に突き出た出枡形虎口となっています。
出枡形であるため本丸側以外の三方が内堀で囲まれています。
正面に見えるのは二の門の高麗門。

東側から見た出枡形。
堀で囲われているのがわかります。

高麗門を入った枡形内。
一の門は櫓門です。

櫓門を内側から。

本丸内に入り、東側から見た天守。
かつてはこの本丸広場に本丸御殿があったのでしょうけど、いまは広い公園になっています。
松本市マスコットキャラの「アルプちゃん」甲冑versionだそうです(笑)。

西側から見た天守の反転バージョンで、三重目に千鳥破風だけがある意匠。
右横に乾小天守が渡櫓でつながっています。
ただ、西側から見たときと違うのは、左側に月見櫓と辰巳附櫓が見えるところですね。

説明板です。

いろんな角度から。

さて、天守の外観を堪能したので、中に入ってみましょう。
「その2」につづきます。
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by sakanoueno-kumo | 2024-06-24 21:37 | 長野の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)