信濃高遠城を歩く。 その2 <本丸・南曲輪・法憧院曲輪>
「その1」のつづきです。
高遠城本丸をもう少し歩きます。
太鼓櫓です。
時を報じる太鼓を打っていた櫓ですね。
江戸時代には搦手門の傍らにあったそうですが、明治10年(1877年)に本丸南隅櫓があったこの場所に移され、昭和18年(1943年)まで時を告げていました。
現在の櫓は大正元年(1912年)の再建されたものです。
その説明板。
本丸内に祀られている新城(盛信)神社。
盛信とは、武田信玄の五男・仁科盛信のことです。
永禄5年(1562年)、武田勝頼が諏訪氏当主を継承して高遠城の城主となりますが、元亀元年(1570年)、信玄嫡男の武田義信が跡取りから降ろされたため、勝頼は信玄の後継者となりました。
勝頼は甲府の躑躅ヶ崎館へと移り、高遠城には信玄の弟・武田信簾が入ります。
その後、信玄没後に家督を継いだ勝頼は、異母弟の仁科盛信を高遠城主としました。
しかし、この頃から織田信長、徳川家康の侵略が激しくなり、天正10年(1582年)、5万の大軍を率いた織田信忠が高遠城へと攻めこみます。
高遠城は盛信をはじめ3000人が籠城して防戦。
このとき盛信は、織田方の使者として降伏を勧めに来た僧侶の耳を削ぎ落として追い返したといいます。
盛信は兄・勝頼の援軍が来ると信じていたようで、実際、勝頼は1万5000の兵を率いて新府城を出陣しています。
盛信にしてみれば、援軍さえくれば十分に太刀打ちできる見込みがあったのでしょう。
ところが、援軍は来ませんでした。
勝頼は新府城を出て、諏訪の上原まで出陣してきていましたが、そこから進みませんでした。
『信長公記』によると、2月28日に武田勝頼・信勝父子と武田信豊は、諏訪の上原を陣払いして新府城に軍勢を撤退させたとあります。
つまり、盛信は兄・勝頼に見捨てられた形で、それを知らずに展望のない籠城戦を続けていたことになります。
そして3月2日、織田軍の総攻撃を受け、落城しました。
城内には女子供もいましたが、皆殺しにされています。
盛信は腹を掻き切り、自らの手で腸を壁に投げつけて果てたと古書は伝えています。
その翌日の3月3日、勝頼は再起を図るために新府城に火を放って岩殿城を目指しましたが、小山田信茂の寝返りによって逃げ場を失い、11日、天目山麓の田野で自刃して果てます。
ここに、450年の歴史を誇る名門武田氏は滅亡しました。
本丸北側の空堀を見下します。
深い!
本丸南側の空堀を見下します。
こっちも深い!
「その1」で見た東側の桜雲橋と問屋門のところも深い空堀があり、本丸周囲がすべて深い空堀で囲われていたことがわかります。
本丸から土橋を渡って南曲輪に向かいます。
土橋があるということは、当然、両側に空堀があります。
南曲輪です。
本丸と同じぐらいの広さがあるでしょうか?
南曲輪は、江戸時代初期に高遠藩に預けられていた保科正之が、幼少期に暮らしていた場所と伝わるそうです。
南曲輪のさらに南にある法憧院曲輪に向かいます。
法憧院曲輪の由来は、戦国時代、ここには「法幢院」というお寺があり、高遠城の戦いの戦死者を弔う法要が行われていたそうです。
寺は文禄元年(1592年)に城外へ移りましたが(現在の桂泉院)、その後も法幢院曲輪と呼ばれ続けました。
この橋は後世に架けられた白兎橋という名の鉄橋ですが、かつてはここに木橋があったのかな?
白兎橋の説明板。
橋から見下ろした空堀。
ここも深い!
堀底に降りてきました。
織田氏が占領したのち、城は攻略に功のあった毛利長秀に与えられました。
ところが間もなく本能寺の変が起きると、武田氏旧臣の木曽義昌が一時的に城を取り返すなどの混乱がありましたが、その後、徳川家康が攻め込み、高遠城を手にします。
以後、江戸時代には徳川譜代の保科氏や鳥居氏などが90年ほどにわたって高遠城主を務めます。
城主が落ち着いたのは、元禄4年(1691年)、内藤清枚が3万3000石で入城し、以降は明治維新まで約180年間、内藤氏が8代にわたって城主を務めました。
正徳4年(1714年)には江戸城大奥年寄の絵島が、絵島生島事件(江戸の役者生島新五郎と絵島が密通した事件)により、高遠城へと流罪になりました。
映画『大奥』でも描かれた有名な事件ですね。
絵島は城近くに設けられた屋敷に幽閉され、外部とは遮断された生活を送ったといいます。
享保7年(1722年)には、2代藩主内藤頼卿が赦免嘆願書を届けたこともあり、城内を比較的自由に過ごすことが認められたといいます。
明治4年(1871年)の廃藩置県によって高遠城は廃城となり、翌年には建造物が民間へと払い下げられ、明治8年(1875年)には城跡が公園となりました。
「その1」で見た勘助曲輪に降りてきました。
これで、長野出張シリーズを終わります。
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by sakanoueno-kumo | 2024-07-27 10:17 | 長野の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)
私も名前だけは聞いているのですが、なかなか、ここまでは。
真田太平記で佐平次がお江に助け出される所という認識しかありません(笑)。