加賀百万石の金沢城を歩く。 その1 <石川門・河北門>
今回は加賀百万石のシンボル、金沢城です。
過日、仕事で金沢に出張の機会があったのですが、せっかく金沢に来たので、金沢城を歩きました。
いうまでもなく、前田利家を藩祖とする加賀藩主前田氏14代の居城です。
東側の兼六園からつながる石川門口です。
橋の向こうに見えるのが、現存遺構の石川門。
橋は現代のものですが、かつてここには土橋がありました。
橋の下を見下ろすと、お堀通りと呼ばれる車道が通っています。
その名のとおり、かつてこの道は百閒堀と呼ばれた水堀でした。
石川門一の門にあたる表門(高麗門)です。
現在の石川門は宝暦の大火(1759年)で焼失した後の天明8年(1788年)に再建されたものです。
現在は兼六園からつながる金沢城公園の入口となっていますが、本来は金沢城の搦手門でした。
石川門は櫓門、続櫓(多門櫓)、菱櫓(二重櫓)、表門(高麗門)と土塀4棟の計8棟の建築群で構成されており、そのすべてが往時のものとして、国の重要文化財に指定されています。
桝形虎口の建築物が一式残っている例は少なく、ここ石川門以外は、大坂城と江戸城しかありません。
門に向かって左側(南側)の二重櫓です。
平面がわずかに菱形になっている菱櫓だそうです。
入母屋造の大屋根上に物見を載せる望楼型で、堀側には唐破風の出窓を設けて防備を固めています。
反対側の向かって右側(北側)に見えるのが桝形二ノ門の櫓門です。
ことらも堀側に唐破風の出窓を設けていますね。
そして、何といっても、金沢城の美の特徴である升目状の塀です。
この規則正しく並んだ正方形。
これば、壁面に四角い平瓦を並べ、白い漆喰で固めたもの。
盛り上がった漆喰が海鼠(なまこ)のように見えることから、海鼠塀と呼ばれています。
白とグレーのコントラストが印象的ですね。
一の門をくぐって、桝形内に入ります。
桝形に入って正面の土塀と石垣。
ここも土塀は海鼠塀です。
そして、左側の土塀と石垣。
石垣の積み方が違うのに目いきますよね。
説明板によると、右側は「切石積み」、左側は「粗加工石積み」とあります。
「切り込み接ぎ」と「打ち込み接ぎ」と同じことかな?
同じ桝形内で違う積み方をしている珍しい例で、時代が違うのかと思いきや、説明板には明和2年(1765 年)の改修時のものと書かれているのみ。
どちらも同じときに積まれたのか、どちらかが改修時のものかはわかりません。
文化年間に書かれた文書には、「左右違い分けて積むのはおかしい」などと記されているそうで、まあ、確かに不思議ですね。
時代が違うのか、担当した職人さんが違ったのか。
桝形内から南側の二重櫓を見上げます。
そして、桝形内から右に折れる感じで二の門の櫓門があります。
櫓門は太い主柱の表面などに筋金を張った筋金門で、上階は白漆喰塗とし、堀側と同じく唐破風造の出窓で防御を固めています。
桝形を出て、城内から見た二の門の櫓門。
石川門を過ぎると三ノ丸に入りますが、その前に、三ノ丸北側の河北門を見ます。
河北門は、大手から入って河北坂を上がったことろにある三ノ丸に入るための門で、宝暦大火で焼失した後に櫓門が再建されなかった大手門に変わり、金沢城の実質的な正門の役割を果たしていました。
安永元年(1772年)再建のものが明治維新後も残っていましたが、明治15年(1882年)の撤去され、現在の門は平成22年(2010年)に再建されたものです。
この美しい切石積みの石垣も再建のようですが、明治の古写真を参考に忠実に再現されています。
その古写真が載った説明板。
桝形内に入ります。
右が二の門の櫓門、左が一ノ門の高麗門です。
脇柱の礎石の説明板。
櫓門復元には、発掘された礎石を再利用されているようです。
一の門を出て、上から見た河北門。
門に向かって右側に見える出窓は、ニラミ櫓台と呼ばれ、一の門に迫る敵を横から狙います。
復元櫓門の中に入れるようです。
復元櫓門内です。
材質なども資料に忠実に復元されています。
河北門の横には三ノ丸広場が広がっていますが、長くなっちゃったので、つづきは「その2」にて。
ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
↓↓↓
by sakanoueno-kumo | 2024-08-08 19:40 | 石川の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)
羨ましい。