加賀百万石の金沢城を歩く。 その4 <三十間長屋・本丸>
「その3」のつづきです。
金沢城本丸付段にやってきました。
極楽橋を渡ってすぐの本丸北西側付段にある三十間長屋。
万延元年(1860年)に建てられたもので、国の重要文化財に指定されているのですが、ここを訪れた令和5年(2023年)4月22日は、残念ながら改修工事中でご覧のとおり。
その説明看板です。
幅3間(約5.3m)、長さ26.5間(約48.2m)の平面を上に重ねた二重二階の多門櫓です。
五十間長屋と同じ構造ですね。
二重の多門櫓って珍しいんじゃないでしょうか。
工事現場の養生壁には、工事の説明書きが展示されています。
足場越しに海鼠塀が見えました。
工事は令和6年3月15日までとなっていましたから、今はもう終わっているのかな?
本丸付段から本丸中心部に向かう鉄門跡です。
説明板によると、創建は寛永8年(1631年)頃で、宝暦の大火(1759年)で焼失するも、明治3年(1766年)に改修され、現状の石垣はそのときのままだそうです。
これがその石垣。
説明書きには「切石積み」とありますが、いわゆる「切り込み接ぎ」ですね。
美しい。
天正8年(1580年)、織田信長が柴田勝家に命じて一向一揆を攻め落とし、この地にあった金沢御堂を制圧。
その後、勝家の甥にあたる佐久間盛政が加賀半国を与えられ、この地に城を築いて居城とします。
それが、金沢城のはじまりでした。
盛政が居城としていたのはほんの3年ほどで、本能寺の変によって信長が横死すると、盛政は勝家に従って賤ケ岳の戦いに参戦し、敗北を喫します。
秀吉は盛政の武勇を買って家臣にしようとしましたが、盛政はこれを固辞。
それならば切腹との配慮も断り、斬首される道を選んだといいます。
本丸北西側の開けた場所にやってきました。
左端に一段上がった場所があります。
櫓台のようですね。
方角でいえば、戌亥櫓でしょう。
駒札には「戌亥櫓跡」とあります。
ここにかつて西と北に出窓がある二層の櫓があったそうですが、宝暦の大火(1759年)で焼失して以来、再建はされませんでした。
戌亥櫓跡から北西の二ノ丸を見下します。
五十間長屋と橋爪門が見えます。
こうして見ると、美しいですね。
橋爪門にズーム。
「その2」でも述べましたが、金沢城の数ある桝形門のなかで最も面積の大きな桝形です。
遠くに石川門も見えます。
戌亥櫓から東を見ると、V字の空堀があります。
ただ、そのなかに煉瓦造りのトンネルのようなものが見えます。
このトンネルの外は二ノ丸との間の高石垣になっているので、この空堀の役目がよくわかりません。
明治31年(1898年)から二ノ丸に陸軍第9師団司令部が置かれ、第二次世界大戦の終戦まで、城は陸軍の拠点として使用されていました。
あるいは、この空堀とトンネルは、そのときの遺構かもしれませんね。
本丸内を東へ進みます。
本丸は見ての通り、現在は森林となっています。
終戦後、一時は米占領軍が城内に進駐しましたが、昭和24年(1949年)から金沢大学のキャンパスとして利用されました。
その間、ここ本丸園地の森は理学部の付属植物園として学術研究の場となっていました。
平成7年(1995年)に金沢大学は別の場所に移転し、その後、金沢城は城跡公園として整備されましたが、ここ本丸の森は、引き続き植物研究のために残されたそうです。
現在でもスダジイやモミの巨木、旧藩時代のころに植栽された樹木、自生した樹木や灌木、ここでしか見ることのできない植物もあるそうです。
ちなみに、説明書きに天守のことが書いてありますが、金沢城天守は慶長7(1602)年に落雷による火災で焼失し、その後は江戸幕府への遠慮から再建されませんでした。
したがって、天守がどこにあったかは、わかっていません。
この池は、城跡の遺構なのか、大学の跡なのか・・・。
本丸の東南隅にやってきました。
駒札には、「辰巳櫓跡」とあります。
往時は長屋を備えた立派な櫓があったようですが、ここも戌亥櫓と同じく、暦の大火(1759年)で焼失して以来、再建はされませんでした。
辰巳櫓跡です。
辰巳櫓跡からの南側眺望。
下に水堀と櫓台のような場所が見えますね。
水堀は「いもり堀」、櫓台は「鯉喉櫓台」です。
あとで行きます。
さて、本丸まで制覇しましたが、城域はまだまだあります。
「その5」に続きます。
ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
↓↓↓
by sakanoueno-kumo | 2024-08-22 20:38 | 石川の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)
やっぱ、人が一緒だと、隅々までなかなか行けてないようです。