加賀百万石の金沢城を歩く。 その7 <いもり堀・辰巳櫓台・鯉喉櫓台・百閒堀>
「その6」のつづきです。
玉泉院丸の石垣から東側にも石垣はつづいています。
土手の上部に見える石垣。
鉢巻石垣ですね。
彦根城や江戸城にもありますよね。
鉢巻石垣の手前に説明板があります。
「いもり堀の石垣」とあります。
いもり堀とは、金沢城の南西を囲む堀。
そして、これがそのいもり堀。
西側から見ています。
往時のいもり堀は明治40年(1907年)に旧陸軍によって埋め立てられてしまいましたが、平成22年(2010年)に復元されました。
そしてそのいもり堀の北側には、本丸南側の高い石垣が。
石垣は2段にセットバックされた石垣となっています。
石垣鑑賞をしながら歴史の話を。
豊臣秀吉の時代になると、金沢城に入ったのは秀吉の盟友・前田利家でした。
それまで能登を治めていた利家は大幅加増を受け、拠点を金沢へ移します。
しかし、利家は豊臣政権の重臣としての任務が忙しく、慶長4年(1599年)に没するまで、金沢にいることはあまりなかったといいます。
城を留守にすることが多かった利家でしたが、城の改修には積極的で、天正15年(1587年)には禁教令によって所領を没収されたキリシタン大名の高山右近を呼び寄せ、城の大改修を担当させています。
大改修は文禄元年(1592年)に留守の利家に代わって、息子の利長も行っています。
その後も城は拡張され、百万石にふさわしい大城郭と城下町が整備されました。
いもり堀の東側に復元されている鯉喉櫓台です。
鯉喉櫓台に上がってみます。
鯉喉櫓台は寛文4年(1664年)に整備されたときの資料をもとに、平成22年(2010年)に約900個の石を使って復元されました。
復元の際には、埋められていた約250個の石を優先的に使い、残りは石川県産の戸室石を使っているそうです。
なお、名称の由来については、はっきりしたことはわかっていません。
鯉喉櫓台上から見たいもり堀。
江戸時代は幅40m深さ10mもある大きな堀だったそうです。
鯉喉櫓台から降りて、いもり堀を見ます。
鯉喉櫓台を南側から。
向こうに辰巳櫓台石垣が見えます。
辰巳櫓台石垣です。
東の丸の南隅に位置します。
現在は3段にセットバックされた石垣ですが、かつては分かれていない高石垣でした。
明治40年(1907年)、本丸南側で大規模な石垣崩落事故が起こり、ここ辰巳櫓台石垣も崩れてしまったそうです。
その後、3段積みに修復されたそうです。
その被害規模は南面石垣の幅200m以上に及んだそう。
明治の積み直しですが、わたしはこのロケーションが好きです。
辰巳櫓台から、「その1」で上から見た百閒堀跡のお堀通りを北へ向かって歩きます。
金沢城は何度も火災を経験しており、慶長7年(1602年)には天守が落雷によって焼失。
以後、天守が再建されることはありませんでした。
その後も元和6年(1620年)、寛永8年(1631年)、宝暦9年(1759年)などにも火災に遭っていますが、その都度、造営、修復が行われ、幕末まで城は維持されてきました。
明治初年に城は存城処分となりましたが、その後、明治8年(1875年)に兵営地となり、以後、不要な建物や門などが次々に取り壊されました。
明治14年(1881年)には火災によって二の丸御殿、橋爪門、五十間長屋など建物の大半を焼失。
さらに3年後には玉泉院丸の鼠多門と続長屋も焼失し、石川門周辺と本丸の三十間長屋などがかろうじて残されました。
明治31年(1898年)から二ノ丸に陸軍第9師団司令部が置かれ、第二次世界大戦の終戦まで、城は陸軍の拠点として使用されてました。
そして、ここ百閒堀も、明治末に埋め立てられました。
昭和の終戦後、一時は米占領軍が城内に進駐しましたが、昭和24年(1949年)から金沢大学のキャンパスとして利用されました。
このあたりは東の丸東側の石垣。
このあたりは三ノ丸東側の石垣です。
「その1」で石川門が見えてきました。
石川門は昭和10年(1935年)に旧国宝に指定されています。
現在は国指定の重要文化財。
海鼠塀に唐破風造の出窓は、城内共通の守りですね。
さて、金沢城公園もすべて攻略しました。
最後に、お堀通り北側に立つ前田利家像を見ます。
長烏帽子形兜が金ピカです。
さて、城攻めは終わりましたが、せっかくなので、東側の兼六園も歩いてみましょう。
「その8」につづきます。
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by sakanoueno-kumo | 2024-09-02 19:47 | 石川の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)
でも、これ見てると、かなりの規模ですよね。
ちゃんと見ようと思うと、一日かかるのでは?