加賀百万石の金沢城を歩く。 その8 <兼六園>
「その7」のつづきです。
金沢城西側の兼六園を歩きます。
説明するまでもないですが、水戸偕楽園、岡山後楽園とならぶ日本三名園のひとつですね。
江戸時代の代表的な林泉回遊式庭園の兼六園。
5代藩主の前田綱紀が庭園「蓮池庭」を造ったのが始まりとされ、13代藩主・前田斉泰のときに現在の兼六園の原型ができたそうです。
園名は、白川藩主の松平定信が『洛陽名園記』を引用し、宏大、幽邃、人力、蒼古、水泉、眺望の六勝を兼ね備えていることから命名したそうです。
この日は午後から金沢城を練り歩いたあと、夕方17時半から兼六園に行きました。
閉園は18時。
わずか30分しかなかったので、駆け足でめぐりました。
兼六園を代表する景観。
有名な徽軫灯籠と霞ヶ池ですね。
徽軫灯籠は足が二股になっていて、琴の糸を支える琴柱(ことじ)に似ているのでその名が付いたと言われています。
この灯籠は水面を照らすための雪見灯籠が変化したもので、高さは2.67m。
池の畔を見ると、これも有名な唐崎松が目に入ります。
13代藩主の前田斉泰が、近江八景のひとつ、琵琶湖畔の唐崎松から種子を取り寄せて育てた黒松です。
兼六園のなかで最も枝ぶりの見事な木です。
唐崎松の東側には、展望台と書かれた駒札が。
六勝の一つ「眺望」を楽しむのに最適な場所です。
白山山系の一部のほか、戸室山、医王山を望むことができ、正面には卯辰山、手前には市街地がつづきます。
また、その向こうには加賀平野が広がり、さらに、河北潟や内灘砂丘、日本海、能登半島なども眺めることができます。
その眺望です。
雁行橋(がんこうばし)(かりがねばし)。
11枚の赤戸室石を使用し、雁が夕空に列をなして飛んでいく様をかたどった雁行橋。
石の一枚一枚が亀の甲の形をしていることから「亀甲橋」とも言われ、この橋を渡ると長生きするとされてきました。
もっとも、現在は石の磨耗が著しいため、通行できなくなっています。
霞ヶ池の反対側(南西側)にやってきました。
説明の駒札があります。
左に見える建物は内橋亭です。
かつて蓮池庭内にあった四亭の一つで、霞ヶ池の西南岸に設けられた水亭。
蓮池馬場の馬見所に建てられていたものを、明治7年(1874年)、現在の場所に移築しました。
ひときわ樹高の高い松の木が目に入りました。
駒札には、根上松(ねあがりのまつ)とあります。
13代藩主・斉泰が、土を盛り上げて若松を植え、根を深く土で覆い、成長後に土をのぞいて根をあらわにしたものだと伝えられています。
これがその根っこ部分。
大小40数本もの根が地上2mにまでせり上がっています。
なるほど、これは珍しいですね。
根上松の向かいにある兼六園菊桜。
一つの花に花びらが300枚以上つき、ちょうど菊の花のように咲くことからこの名で呼ばれているそうです。
開花期は4月下旬から5月上旬までの約2週間。
普通の桜と違って、濃紅、薄紅、白と色が移っていくのが特徴だそうです。
全国にある桜のなかでも特に珍しい品種だそうで、昭和3年(1928年)に天然記念物に指定された初代兼六園桜は、昭和45年(1970年)に枯死し、現在の兼六園桜は三代目だそうです。
わたしがここを訪れたのは令和5年(2023年)4月22日。
ちょうど見ごろの時期でラッキーでした。
兼六園桜から南へ進むと、大きな銅像がありました。
駒札には、日本武尊の像とあります。
何で兼六園に日本武尊?・・・と説明文を読んでみると、西南戦争で戦死した石川県戦士400人を慰霊するために建てられたものだそうです。
銅像は西南戦争の3年後の明治13年(1880年)の建立で、日本最初の屋外人物の銅像だそうです。
それは歴史的価値が高い銅像ですね。
最後に瓢池(ひさごいけ)。
瓢池周辺はかつて蓮池庭(れんちてい)と呼ばれ、兼六園の作庭はこの辺りからはじまったと言われています。
その名の由来は、池が瓢箪のような形をしていることから名づけられたそうです。
奥に見える滝は翠滝(みどりたき)と言って、安永3年(1774年)に作られたものだそうです。
さて、短い時間で見て回った兼六園でしたが、閉園時間となりました。
門を出て向かい側に見える石川門で最後は締めます。
あわただしく行動することを「駆け足で〇〇する」とかいいますが、慣用句ではなく、本当に駆け足で見て回った兼六園でした。
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by sakanoueno-kumo | 2024-09-10 01:28 | 石川の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)
400人も死んでいたというのは知りませんでした。