神戸城跡逍遥記。
今回は三重県鈴鹿市の神戸城です。
神戸城はその名のとおり、中世においては神戸氏の居城で、江戸時代には神戸藩の藩庁が置かれました。
現在、城跡は公園として整備され、本丸の石垣および堀の一部が残っています。
お決まりの城址碑。
向こうに見えるのが、天守台跡の石垣です。
説明看板。
説明看板内に載っていた往時の縄張り図です。
天守台です。
ここに五重天守が築かれたといいますが、詳細は不明です。
天守台をいろんな角度から。
神戸氏は、桓武平氏の流れをくむ関氏の子孫で、伊勢河曲郡神戸郷を領した豪族です。
南北朝時代の正平22年/貞治6年(1367年)、関盛政が所領を5人の子に分割し、長男の盛澄が神戸郷を相続して神戸氏を名乗りました。
神戸氏は本家の関氏とともに伊勢国司の北畠氏に臣従していましたが、3代神戸為盛が北畠材親の子を養子に迎え、4代具盛(楽三)として家督を継がせると、北伊勢を中心に本家と並ぶ勢力となりました。
具盛は天文年間(1532~55年)に神戸城を築城し、本拠をそれまでの沢城から移したとされています。
また、築城時期については、具盛の孫の6代利盛が弘治年間(1555~58年)に築いたという説もあります。
その後、利盛の弟で祖父と同名の7代具盛(友盛)の時代になると、北畠氏の勢力は衰え、神戸氏は地理的に近い近江の六角氏に接近しました。
具盛は六角氏の家臣で近江日野城の蒲生定秀の娘と結婚し、関氏とともに六角氏に臣従するようになります。
出隅は算木積みになっていますね。

織田信長の三男・信孝は、母が関氏庶流の出自とされ、神戸氏とは遠縁にあたる血筋でした。
永禄10年(1567年)、信長は伊勢侵攻を開始し、翌永禄11年(1568年)、具盛は信孝を養子として受け入れることで和睦します。
信長は元亀2年(1571年)に具盛を隠居させ、翌年に信孝を神戸城主としました。
信孝は神戸検地と呼ばれる検地を行い、城下に楽市楽座、傳馬制を敷くなど領地経営に力を注ぎ、伊勢参宮街道の宿場として神戸は大いに栄えたといいます。
さらに信孝は、天正8年(1580年)から神戸城の大改修に着手し、五重天守を築いて高石垣と金箔瓦をもつ城郭として完成させました。
天正10年(1582年)の本能寺の変後の清須会議で信孝は岐阜城に移ることとなり、神戸城には小島正次が入りますが、翌年の賤ヶ岳の戦いで信孝は柴田勝家方につき、敗れたのち自害します。
天守台の上に登ってきました。
石碑とあずまやがあります。
石碑のには神戸城址天主堂碑とあります。
碑文は漢文なので読解できませんが、明治九年建立という古い碑で、神戸信孝や本多忠統の文字があります。
天守の上から見た出隅石垣。
横から見た石垣。
上から見下ろした雁木。
わたしの影が写ってわかりづらい。
天守から本丸を見下します。
本丸外周に、一部土塁が残っています。
石垣ばかり撮影していますが、往時は多くは土塁造りだったようです。
上の縄張り図で見たように、かつては幅の広い水堀で囲われていました。
本丸の外にはその名残が少しだけ残っています。
でも、ほとんどが公園整備されて改変されてしまっているようですね。
信孝の死後、神戸城には林正武が入り、神戸氏の名跡を継ぎます。
その後、神戸城主は水野忠重、滝川雄利などと入れ替わり、雄利時代には天守が伊勢桑名城の隅櫓として移築されたといいます。
しかし、その雄利は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍についたため所領を没収され、翌年に一柳直盛が5万石で入り、神戸藩を立藩します。
ところが、直盛は寛永13年(1636年)に加増されて伊予西条に移り、神戸城は取り壊されます。
その後はしばらく天領となっていましたが、万治3年(1660年)に石川総長が2万石で神戸藩を再興し、石川氏が3代続いたあと、享保17年(1732年)に本多忠統が1万石で神戸城主となりました。
石川氏時代は神戸藩は陣屋を藩庁としていましたが、忠統は幕府の若年寄という要職にあったため、小藩ながら城を再建を許可されます。
その後、本多氏が7代続いて明治維新を迎えました。
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by sakanoueno-kumo | 2024-12-02 18:23 | 三重の史跡・観光 | Trackback | Comments(4)