但馬国・楽々前城攻城記。 その3 <南城のⅨ郭~Ⅶ郭>
「その2」のつづきです。
南城エリア北側の段郭を南へ進んできました。

Ⅸ郭北側の堀切と土橋D。
美しいプロポーションの土橋です。

土橋横の堀切。

土橋を渡って、西側の堀切から落ちる竪堀の堀底を進みます。

竪堀を上から。

竪堀を下から。

ここで縄張り図を載せます。
引用・加筆:『近畿の城郭Ⅴ』
発行所:戎光祥出版

南城だけ拡大した縄張り図。

竪堀から南側を見ると、Ⅸ郭西側の畝状竪堀群が見えます。

畝状竪堀群を横から。

畝状竪堀群を下から。

畝状竪堀群を上から。


土橋Dに戻って、Ⅸ郭虎口進入。

Ⅸ郭です。

Ⅸ郭から見たⅧ郭切岸。

Ⅸ郭からⅧ郭西側の畝状竪堀Cへ。

Ⅷ郭西側の畝状竪堀C。

いろんな角度から。

Ⅷ郭に上がってきました。

長享2年(1488年)7月、山名政豊が播磨から撤退すると、但馬は守護家の山名氏と守護代の垣屋氏が対立する緊迫した情勢になります。
同年9月、あくまで播磨侵攻を主張する垣屋続成らを筆頭とする26人の国人たちが、政豊を廃して備後守護の山名俊豊(政豊の長男)を擁立しようとし、政豊の籠る木崎城を包囲しています。
その後も幾度となく合戦、和解を繰り返しますが、明応8年(1499年)に政豊が没し、その子・致豊が守護となると、永正元年(1504年)夏には垣屋続成と山名致豊の抗争が再燃し、続成が山名氏の本城・此隅山城を攻めています。
この戦いの結果は不明ですが、翌年の6月に将軍足利義澄が両者に和睦勧告をしている記録が残されています。

その後、永正8年(1511年)8月、垣屋続成と山名致豊は和睦し、続成は守護代となったようです。
その翌年には、山名致豊は弟の誠豊に守護職を譲り、垣屋続成は楽々前城から鶴ヶ峰城に移っています。

Ⅶ郭まで来たところで、「その4」につづきます。
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by sakanoueno-kumo | 2025-03-25 18:30 | 兵庫の史跡・観光 | Trackback | Comments(0)
















