2010年 05月 03日 ( 1 )

 

龍馬伝 第18話「海軍を作ろう!」

 勝麟太郎(勝海舟)が神戸に海軍操練所を作るに至ったのは、文久3年((1863年)4月24日、幕府からの辞令によるものだった。坂本龍馬と麟太郎はその準備をするべく大坂へ向かう。大阪での宿舎は北鍋屋町の泉称寺とされ、そこで神戸海軍操練所の前身となる塾が開かれ、諸藩から派遣された塾生たちに様式操練の授業などが行われたいた。この頃の龍馬は、ドラマのように塾生の勧誘をして回っていたかどうかはわからないが、麟太郎の懐刀として操練所開設の準備に奔走していたようだ。

 土佐勤王党からも、望月亀弥太高松太郎千屋寅之助の3名が入塾する。ドラマでの彼らはこの入塾は藩命によるもので本意ではなかったようだったが、事実はどうだったかはわからないが、この入塾によって彼らの運命は大きく変わることになる。望月亀弥太は土佐勤王党の弾圧が始まったこの翌年、脱藩して長州藩に亡命。そしてその後、池田屋事件にて新撰組の凶刃に斃れる。享年27歳。高松太郎は同じく土佐勤王党の弾圧が始まると脱藩し、龍馬の甥という関係もあて海援隊に参加。龍馬の死後、坂本直と改め龍馬の家督を継ぐことになる。千屋寅之助は同じく海援隊に参加。のちに龍馬の妻・おりょうの妹を妻に娶り、龍馬とは義兄弟の関係になる。維新後、菅野覚兵衛と名を改め、新政府の海軍少佐にまでなった彼は、義姉にあたるおりょうの面倒をよく見たといわれる。こののち土佐勤王党弾圧によって武市半平太たちと運命を共にしたかもしれないことを思えば、池田屋に散った望月はともかく、高松と千屋にとってはまさに命拾いの入塾だった。

 岡田以蔵が龍馬に頼まれて麟太郎の護衛をしたという話は、明治中期になって刊行された勝海舟の自伝「氷川清話」に詳しい。「人斬り以蔵」として悪名高い彼だが、後世の私たちに何故か愛すべき人物として伝わるのは、この護衛のエピソードから来るものが大きいだろう。こののち以蔵は麟太郎に頼まれて、ジョン万次郎の護衛もしたというエピソードもある。そのまま龍馬や麟太郎のもとにいれば、後の哀れな運命も避けられたかもしれないと誰もが思うところだが、そう出来なかった彼の律義さが、彼を人斬りにしてしまった要因でもあり、そこが切ない。

 「酔えば勤王、覚めれば佐幕」と揶揄された山内容堂。彼は尊王主義ではあり、井伊大老の政策に反対したことで安政大獄に連座して隠居謹慎を命ぜられたものであるが、「尊王」ではあっても「勤王」ではなかった。そこに武市半平太の誤算があった。容堂はあくまで外交問題では開港論で、朝廷と幕府の調停を念願した。いわゆる公武合体策である。したがって公武の対立をよろこばず、その対立を激化し討幕の機会を得ようとする勤王党の態度を不快視した。しかし、一貫して土佐勤王党の主張を寄せ付けなかった吉田東洋とは違い、容堂は時勢を見ながら半平太たちを泳がせた。つまり利用していたのだ。そこに、この山内容堂という人物の強かさがうかがえる。半平太たちにとって東洋暗殺は誤りだった。吉田東洋という存在は、実は山内容堂という大波を遮る防波堤の存在だった。その堤を自ら取り除いてしまった半平太たちは、容堂というとてつもない津波にのまれることとなる。


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by sakanoueno-kumo | 2010-05-03 01:33 | 龍馬伝 | Trackback(7) | Comments(4)