2010年 05月 24日 ( 1 )

 

龍馬伝 第21話「故郷の友よ」

 「志士は溝壑(こうがく)にあるを忘れず、勇士はその元(こうべ)を喪(うしな)うを忘れず」という言葉がある。志のある者は、道義のためなら窮死してその屍を溝や谷に棄てられても良いと覚悟しており、勇ましい者は、君国のためならばいつ首を取られても良いと思っている・・という意味。元は孔子の言葉で、幕末には吉田松陰が志士の心構えとして説き、この時代を生きる全ての志士たちの共通したスローガンだった。近年では小泉純一郎元総理が、改革に向けての所信表明演説でこの言葉を使っていた。小泉元総理が本当にその覚悟があったかどうかは眉ツバものだが、坂本龍馬武市半平太も歩む道は違えど、当然、己の命は天に預けて生きていたことだろう。
 「武市さんらは元から侍じゃ。何があろうと覚悟は出来とったがじゃないですろうか・・・。」
 長次郎の言ったとおり、半平太は覚悟が出来ていただろう。志士は溝壑にあるを忘れず・・・しかし半平太には、溝や谷に棄てられることよりもっと無念な、信じていた者に裏切られるという、彼にとって思ってもみなかった最期が待っていた。

 「八月十八日の政変」で政局が一変すると、山内容堂はついに公然と土佐勤王党弾圧にふみきった。容堂はこのときを待っていたのだ。にも関わらず、半平太はこの直前の8月7日の時点でもまだ容堂を信じていたらしい。7日付けの手紙にはその前日容堂に謁して、「種々様々の御はなしにて、一も争論申し上げ候事御座なく候。」とまで書いており、よほど半平太は容堂に気をゆるしていたらしいことがうかがえる。手紙は続く・・・。
 「天下の勢より、御国の勢、諸侯方の善悪、且つ、其他にて、昨年以来斬姦の次第等申し上げ、誠にしみじみ御談話排承仕候・・・。」
 「斬姦の次第」とか「諸侯方の善悪」云々など、郷士あがりが口にすることなど、容堂が最も嫌悪するところだっただろう。が、この時点ではまだ容堂は耐えた。煮えくりかえる思いで耐えていた。しかし、近々起こり得るであろう政変の匂いは嗅ぎ分けていたことだろう。政変後、なんの遠慮もなくなった容堂は、文久3年(1863年)9月21日、武市半平太、河野万寿弥、そして半平太の妻・富子の弟、島村衛吉など8名を逮捕、投獄した。罪名は、
 「右者、京都へ対し、そのままにおかれ難く、其の余御不審のかどこれ有り。」
という曖昧なものだった。容堂にとって罪状などどうでもよかった。目的は土佐勤王党壊滅にあったのだから。

 龍馬にも当然、この報は届いていた。勝海舟の10月12日の日記にはこうある。
 「聞く。土州にても武市半平太の輩逼塞せられ、其党憤激、大に動揺す。かつ寄合私語する者は必ず捕へられ、又打殺さるゆへに、過激暴論の徒、長州へ脱走する者今三十人斗(ばか)り、また此地に潜居する徒を厳に捕へ、或は帰国を申し渡すよ云ふ。」
 藩庁の手は当然、龍馬にものびた。この時点で、龍馬は再び脱藩者の身になったのである。

 半平太投獄の頃、京に一人残っていた岡田以蔵は、土井鉄蔵と名を変え潜伏していた。半平太と袂を分かち、龍馬とも音信不通になった以蔵は、女色に溺れ、荒んだ日々を送っていたという。追われる身となった以蔵には、「人斬り以蔵」という名で恐れられた面影は既になかった。志士は溝壑にあるを忘れず・・・といった覚悟は、おそらく彼にはなかっただろう。彼は龍馬や半平太のような、高い志を持った志士ではなかった。刀のみを信じたテロリストに過ぎなかった以蔵は、時勢に利用されるだけされ、不要になると、野良犬のような日々を余儀なくされた。時勢に暗い彼は、何故自分が追われる身となったかもわからなかったかもしれない。そこがまた彼の切なさでもある。

 八月十八日の政変や、半平太の妻・富子のことにもふれようと思っていたが、既に多くの行数を費やしてしまったため、また改めて起稿しようと思う。


追記:「八月十八日の政変」と、幕末における長州藩の役割。


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by sakanoueno-kumo | 2010-05-24 01:17 | 龍馬伝 | Trackback(7) | Comments(4)