2010年 05月 26日 ( 1 )

 

「八月十八日の政変」と、幕末における長州藩の役割。

 文久3年(1863年)8月18日、朝廷内にクーデターが起きた。同年5月10日の攘夷決行(下関戦争)によって朝廷から褒勅の沙汰を享けた長州藩は、以後、朝廷の政に何かにつけ口を出すようになり、暴徒の激しさも増していった。しかし、あまりにも過激な長州藩の行動を持て余した「公武合体派」中川宮朝彦親王(平井収二郎が取り入った人物)や近衛忠熙近衛忠房らが、この当時御所の警備を任されていた薩摩藩・会津藩と手を結び、「攘夷派」三条実美をはじめとする7人の公卿を朝廷から一掃(七卿落ち)、長州藩の軍勢たちも公卿を守って京から落ちていった。いわゆる「八月十八日の政変」である。

 皮肉にも、この政変を最も望んでいたのは、先の攘夷決行の勅許を出した孝明天皇だった。孝明天皇が望んだのはあくまで幕府による攘夷で、過激な長州藩の行動には恐怖すら感じていた。帝を尊び、帝の為に命をも惜しまなかった長州志士たちは、帝の意向によって朝敵にされた。京から長州藩が一掃されると、孝明天皇は本心を明らかにする宸翰(しんかん)を発布する。
 「是迄、彼是、真偽不分明之義有之候へ共、去る十八日以後申出候義は、朕が真実の存意に候。此辺、諸藩一同心得違無之様之事。」
 今までの「勅」は全部インチキだというのだ。長州藩にとっては全く寝耳に水であっただろう。そもそも彼らが藩をあげて戦ったのは、天皇の「勅」を奉じて幕府が5月10日を攘夷決行の日と諸藩に通達した結果ではなかったか。諸藩の中で最も純粋に天皇の「勅」を重んじた長州藩が、実は天皇から最も疎んじられる結果となった。孝明天皇にとって過激なラブコールを贈る長州藩はストーカーのような怖さがあったのかもしれない。これ以後、長州藩は幕末の最終局面で坂本龍馬の力を得るまで、辛苦の時代を過ごすこととなる。

 「攘夷は倒幕のための手段」というすり替え論は、この長州藩に限っては当てはまらなかっただろう。彼らは本気で攘夷が可能だと信じていた。作家・司馬遼太郎氏は、その著書「竜馬がゆく」の中でこう述べている。
 「幕末における長州藩の暴走というのは、一藩発狂したかとおもわれるほどのもので、よくいえば壮烈、わるくいえば無謀というほかない。国内的な、または国際的な諸条件が万位一つの僥倖をもたらし、いうなればこの長州藩の暴走がいわばダイナマイトになって徳川体制の厚い壁を破る結果になり、明治維新に行きついた。・・・(中略)・・・当時の長州藩は、正気で文明世界と決戦しうると考えていた。攘夷戦争という気分はもうこの藩にあっては宗教戦争といっていいようなもので、勝敗、利害の判断をこえていた。長州藩過激分子の状態は、フライパンにのせられた生きたアヒルに似ている。いたずらに狂躁している。この狂躁は、当然、列強の日本侵略の口実になりうるもので、かれらはやろうと思えばやれたであろう。が、列強間での相互牽制と列強それぞれが日本と戦争できない国内事情にあったことが、さいわいした。さらにいえば、当時のアジア諸国とはちがった、この長州藩の攘夷活動のすさまじさが欧米人をして、日本との戦争の前途に荷厄介さを感じさせた、ということはいえる。・・・(中略)・・・いずれにせよ、長州藩は幕末における現状打破のダイナマイトであった。この暴走は偶然右の理由で拾いものの成功をしたが、・・・これでいける。という無知な自信をその後の日本人の子孫にあたえた。とくに長州藩がその基礎をつくった陸軍軍閥にその考え方が、濃厚に遺伝した。昭和初期の陸軍軍人は、この暴走型の幕末志士を気取り、テロをおこし、内政、外交を壟断し、ついには大東亜戦争をひきおこした。かれらは長州藩の暴走による成功が、万に一つの僥倖であったことを見抜くほどの智恵をもたなかった。」
 後半の大東亜戦争云々はここではおいておくとして、幕末の長州藩の姿がとてもよくわかる見解だ。他にも司馬氏は同作品の中でこんな表現をしている。
 「長州藩は火薬庫のようなものだ。過激藩士が、火薬庫の中で、松明をふりまわして乱舞している。あぶない、どころではない。」
 ダイナマイトや火薬庫に比喩されるほど過激なこの長州藩の存在がなければ、後の明治維新はまた違ったものになっていたかもしれない。が、この時期の長州藩はまだ無意味に暴発する危なっかしさだけであった。ダイナマイトも使い方次第である。後に歴史はその使い手に坂本龍馬を選ぶ。龍馬はその導火線に火をつけることなくその威力を発揮させ、やがて幕府を倒すに至るのである。


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by sakanoueno-kumo | 2010-05-26 00:14 | 歴史考察 | Trackback(2) | Comments(2)