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2010年 11月 02日 ( 1 )

 

龍馬伝 第44話「雨の逃亡者」

 慶応3年(1867年)7月6日夜(7月7日未明ともいわれる)、長崎に逗留中だった英国軍艦イカルス号の乗り組み水夫・ロバート・フィードと、ジョン・ホッチングスの両名が、長崎の花街・丸山で何者かに惨殺された。いわゆる「英艦イカルス号事件」である。この下手人が海援隊士ではないかという嫌疑がかかり、このためこの時期大政奉還を実現するために奔走していた坂本龍馬は、「いろは丸沈没事件」に続き、また足止めをくうことになる。ドラマでは、長崎奉行所対海援隊といった、えらく小さな話になっていたが、実際にはこの事件は、土佐藩、幕府を巻き込んだ国際問題となった。

 事件当時、長崎では外国人殺傷事件が相次いで発生しており、いずれも加害者が不明で、長崎における在留外国人たちの恐怖は非常なものがあった。事件発生後、英国領事官フローエルスはただちに長崎奉行所に犯人捕縛を急き立てたが、容易に調べがつかない。おりから長崎に来航したハリー・パークス公使は自ら手を回して調査し、犯人は海援隊士と同じ白筒袖の服装だったという証言を得た。そのことから犯人は海援隊士に間違いないと見たパークスは、長崎奉行所に取調べを求めたが、それだけでは根拠が薄いとの理由で受け付けられなかった。これに憤慨したパークスは、この上は幕府に訴え出て直接土佐藩にかけあうほかなしと、同月24日大阪へ入り、幕府老中・板倉勝静に厳しく談判をもちこんだのである。龍馬がこの事件を知ったのはこの時だと思われる。

 怒鳴りこまれた幕府は、責任上無視することも出来ず、担当者三十余人を土佐へ出張させることに決し、土佐藩も後藤象二郎佐々木高行をはじめ在京の藩重役を急遽帰国させることとし、薩摩藩から借用した汽船三邦丸に乗船する。出航まぎわに龍馬は小舟に乗って同船にこぎ着け、事件の善後策を後藤と協議しているうちに、船は錨をあげ出航してしまった。やむなく龍馬はそのまま同船して土佐に向かうこととなった。脱藩以来、約5年ぶりの帰国だった。しかし、藩内佐幕派をはばかり、龍馬は土佐藩船・夕顔丸に潜伏したまま上陸することはなかった。

 龍馬たちが土佐・須崎に入港した翌日には幕府重役を乗せた船が入港、その2日後にはパークスが搭乗した英国艦が入港、その物々しい状況に高知城下は混乱をきわめたという。攘夷派の暴発を恐れた藩当局は陸上での談判を諦め、夕顔丸船内で行うこととなった。土佐藩代表として談判に臨んだのは後藤象二郎。席上、パークスはいきなり怒気をあらわし、机を叩き、床を踏み鳴らすなど、威圧的な態度を見せたという。しかし後藤は怯むことなく冷然と、「公使は交渉のために当地へ来られたのか、それとも挑戦のために来られたのか、甚だ理解に苦しむ。いやしくも使臣の前において、かような凶暴な態度を示されるのなら、小官はむしろ談判の中止を希望する。」と厳しく抗議した。通訳・アーネスト・サトウを介してこの抗議を聞いたパークスはにわかに態度をあらため、「本官はこれまで中国人との交渉には、常に威圧的な態度をもって効をおさめた経験から、はからずも貴官に対し無礼をはたらいた。厚く諒恕を請う。」と謝意を示したという。このときの後藤についてアーネスト・サトウは後年の著書「維新外交秘録」の中で、「後藤はこれまで我々があったうち、もっとも才智の優れた日本人であったから、ハリー卿の気に入った。」と評している。そんな後藤の手腕もあって英国側は態度を軟化させ、海援隊士犯人説は風説にもとづくところがあるため、再び長崎で調査を行うことで合意した。

 長崎に着いた龍馬は、早速佐々木高行や岩崎弥太郎たちと協議し、金一千両の懸賞金を付けて真犯人の捜索を行ったが、手掛かりを得ることは出来なかった。8月18日、長崎奉行による正式の取り調べが始まり、事件当夜、海援隊士・菅野覚兵衛佐々木栄が現場近くの料亭にいたことが判明、二人は事件直後に長崎を出航して鹿児島に向かっており、逃げたのではないかといった疑いが持たれた。早速二人を呼び戻し取り調べを試みたものの、証拠不十分。結局、確証を得ることが出来ないまま、9月7日、別件逮捕のようなかたちで菅野覚兵衛、佐々木栄、渡辺剛八の三人について申口不束(ふつつか)、岩崎弥太郎には管理不行届の理由で恐れ入れとの口上が渡された。弥太郎と佐々木は素直に応じたが、菅野と渡辺はその理由なしと頭を下げず、9月10日までねばり、結局奉行側が譲歩、お構いなしということで意気揚々と引き上げた。これついて龍馬は佐々木高行に宛てた手紙の中で、「只今戦争相すみ候処、然るに岩弥、佐栄兼て御案内の通りに、兵機も無之候へば無余儀敗走に及び候。独り菅、渡辺の陣、敵軍あへて近寄り能はず」と2人の剛情を評している。

 これでこの事件は一応の決着がついたものの、真犯人が見つかっていないため本当の意味での一件落着ではなかった。真犯人が判明したのは龍馬の死後、明治元年(1868年)になってからである。犯人は筑前福岡藩士の金子才吉という人物で、しかも当人は犯行直後すでに自決していた。この金子は福岡藩でも嘱望された人物だったが、事件当夜、外国水夫が路上で泥酔して寝ているのを見て、嫌悪のあまり斬り捨て、翌日藩庁へ自首した後、国際関係の紛糾を恐れ切腹したという。福岡藩は嫌疑を受けた土佐藩が苦境に立たされたのを見過ごし、事件を秘匿し続けていたが、ついにそれが暴露されたため土佐藩に重役を派遣し謝意をあらわした。しかし、そのとき既に龍馬はこの世にはいなかった。

 というのが、「英艦イカルス号事件」の全容である。長文になってしまったが、ドラマの設定があまりにも通説と異なっていたため、ことのあらましを順を追って紹介させてもらった。この「英艦イカルス号事件」と、前々話の「いろは丸沈没事件」のエピソードは、龍馬の物語では省略されることが多い。というのも、時勢は倒幕か大政奉還かと緊迫したなか、この二つのエピソードはどうしても横道にそれてしまうエピソードだからだろう。しかし今回のドラマでは二つとも採用された。それはまあいい。「いろは丸沈没事件」は、龍馬暗殺の一説の伏線として重要な事件ともいえるし、ドラマのつくりも面白くできていた(あくまで私の感想だが)。しかし今話はどうだろう。こうも史実を変えてまで、紹介しなければならないエピソードだっただろうか。この作り話に1話を費やすぐらいなら、過去にもっと採用すべき事柄があったのではと思ってしまったのは私だけだろうか。

 龍馬の人生最後の年となった慶応3年(1867年)は、「いろは丸沈没事件」で約3ヶ月、この「英艦イカルス号事件」で約2ヶ月の計5ヶ月もの間、時勢とは無関係な仕事に時間を費やさねばならなかった。このため大政奉還が数ヵ月遅れたといっても過言ではないかもしれない。おそらく龍馬は苛立っていたことだろう。この間、薩長は武力倒幕の準備を着々と進めていたはずだから。


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by sakanoueno-kumo | 2010-11-02 22:36 | 龍馬伝 | Trackback(2) | Comments(2)