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2010年 11月 25日 ( 1 )

 

坂本龍馬の人物像についての考察。

 NHK大河ドラマ「龍馬伝」が、次回で最終回を向かえる。毎週ドラマの進行に沿いながら、史実・通説との対比や私見を述べさせてもらってきたが、最終回を向かえるにあたって、今更ながら坂本龍馬の人物像についてふれてみたいと思う。

e0158128_14402415.jpg 坂本龍馬といえば、人々の中に強い一定のイメージが存在する。明るく、楽天的で、濶達で、気取りがない。粗野に見えるところもあるが、陰険さがまったく感じられないので、とにかく好感がもてる。同時代に生きる「志士」たちのイメージといえば、激情家で、眉をつり上げ、とらわれた精神の持ち主という、いわば悲憤慷慨型の人物を連想しがちだが、龍馬にはそういった気負いがまったく感じられず、良くも悪しくも自然体の自由人といったイメージだ。

 では、そうした龍馬像はいつごろから定着したのだろうか。龍馬をあつかった小説として司馬遼太郎氏の『竜馬がゆく』は決定的で、私たちの持つ龍馬像はこの作品によって作られたと言われることに異論はないが、では、その司馬・龍馬像は、どのようにして出来たのだろうか。歴史家の故・飛鳥井雅道氏はその著書の中で、龍馬の人物像は明治、大正、昭和の時代背景に応じて段階的に形成されていったと説く。

e0158128_144152100.jpg 最初に龍馬が脚光をあびたのは、明治16年(1883年)に高知の土陽新聞で連載された「汗血千里の駒」という小説だった。著者は自由民権運動家で小説家の坂崎紫瀾。自由民権運動の激化の中で、悪は薩長にありとのキャンペーンが民権派の中に浸透されていく過程でのことだった。民権運動の中で育った若き坂崎紫瀾は、維新前、土佐を二分していた上士と下士の対立をそのまま藩閥対民党の対立にかぶせ合わせて話を展開していった。維新に際して土佐藩は完全に薩長の後塵を拝し、征韓論以来、政府の片隅に追いやられてしまっていた土佐派が、板垣退助後藤象二郎をはじめとして、なんとか土佐の役割を復権したいと模索していた時期だっただけに、この小説の影響力は大きかった。板垣はこのころから、「自分の今日あるは坂本龍馬先生のおかげである」などと好んで言い始めていたという。龍馬の復活は死後十数年経った明治中期、まずは民権派の源流としてであった。

e0158128_14424896.jpg 次に龍馬の名が世間に轟いたのは、明治37年(1904年)2月、近代日本の二度目の大博打たる日露戦争の戦端が開かれ、国民の中に憂色が立ち込めていた時期だった。そんなおり、新聞各紙は突然、「皇后の奇夢」と題したセンセーショナルな記事を発表する。日本がロシアと国交を断絶した2月6日、皇后の夢に白装の武士があらわれ、「微臣は維新前、国事のために身を致したる南海の坂本龍馬と申す者に候。海軍のことは当時より熱心に心掛けたるところにござれば、このたび露国とのこと、身は亡き数に入り候えども魂魄は御国の海軍にとどまり、いささかの力を尽すべく候。勝敗のことご安堵あらまほしく。」と語ったという。そして翌日の晩も再び皇后の夢枕に立ったという念の入りようだった。皇后が怪しんで側近にこの夢を語り、当時の宮内大臣で往年の陸援隊副隊長だった田中光顕が龍馬の写真を見せたところ、「容貌風采、この写真に寸分違ひなしと仰せられた」とあっては、龍馬ブームが爆発的に広がっていく理由としては十分すぎただろう。龍馬の墓の横には新たな碑が建てられ、「死して護国の鬼となる」とうたわれた。ここでの龍馬は、亀山社中のリーダーから海援隊の隊長にとどまらず、大日本帝国海軍の守護神にまで高められたのである。もちろん、この夢はおそらく作り話だろう。陸軍は長州閥、海軍は薩摩閥にその実権をにぎられ、二流の閑職かせいぜい皇后宮関係などの無難な場所に追いやられていた土佐派にとって、この龍馬の幽霊は大きな意味があった。演出者はほぼ想像がつく。龍馬の二度目の復活は、こうした背景の中、海軍の先駆者としてであった。

 「皇后の奇夢」から20年ほどが過ぎた大正末から昭和初年にかけて、立憲主義をとなえた大正デモクラシーが華やかに展開されていた。この立場によれば、明治維新は「万機公論ニ決スベシ」という「五箇条の御誓文」の精神にそってとらえなおすべきであり、藩閥政府は維新本来の精神に反しているという論だった。こうした「デモクラシー歴史観」の中で再び注目されたのが、龍馬の「船中八策」ならびに「新政府綱領八策」であったという。 「万機宜シク公議ニ決スベキ事」「外国ノ交際広ク公議ヲ採リ」など、この案では「公」が激しく強調されており、デモクラシー史観からは、この龍馬の案が「デモクラシー」の先駆的思考と考えられた。強く日本の変革を求めつつも、ボルシェヴィキ革命のような流血をさけたいとする民本主義者たちにとって、公儀を原則とする「大政奉還」、つまり平和革命コースはもっとも理想的な革命のモデルだった。こうした背景の中、龍馬の三度目の復活は、大正デモクラシーの源流、平和革命論者としてであった。

 こうして坂本龍馬は、「自由民権運動の祖」「大日本帝国海軍の祖」「大正デモクラシー的平和革命の祖」と、時代時代に合わせてその姿を変え、語り継がれてきた、と飛鳥井雅道氏はいう。だが、この龍馬の持つ3つの顔は、きわめて政治的な背景が生んだ虚像であることは言うまでもない。では、本来の龍馬像はどのようなものだったのだろう、という観点から生まれたのが、司馬遼太郎氏の小説『竜馬がゆく』であった。e0158128_1446159.jpg司馬氏は、それまでの龍馬が持つ政治的な匂いを払拭し、人々が抱き始めていた愛すべき龍馬像を司馬氏的に大きく拡大し定着することに成功したことで、戦後の龍馬像の決定版を作れたのだ。土佐にとらわれず、薩長にもとらわれず、さらには幕臣の勝海舟から貪欲に知見をむさぼりつくした自由人・坂本龍馬・・・と。この司馬氏的龍馬像も、司馬氏が作り出した虚像だといわれれば、そうかもしれない。事実、小説である以上、多分にフィクションが盛り込まれている。しかし、少なくとも司馬氏の龍馬像は、上記に見る政治的、思想的に都合よく利用されてきた龍馬像ではない。明治、大正、昭和と政治的に利用され、思想的に拡大解釈されてきた龍馬像は、死後100年が過ぎ、司馬氏の手によってようやく本来の龍馬像に近づき得たと私は思っている。

 今年また、大河ドラマの影響で5度目の龍馬ブームが起こった。ドラマに見る龍馬像については、最終回終了後の稿にゆずることにしたい。ただ、一言だけいえば、司馬氏的龍馬像を超える龍馬像はまだ生まれていない。


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by sakanoueno-kumo | 2010-11-25 22:51 | 歴史考察 | Trackback | Comments(4)