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2011年 10月 11日 ( 1 )

 

江~姫たちの戦国~ 第39話「運命の対面」

 徳川秀忠に将軍職を譲った徳川家康は、新首都となる江戸城とその城下町の設計に取り掛かっていた。広大な首府となる江戸の町の地盤を固めるために、家康は前田利長・伊達政宗・加藤清正・結城秀康・松平忠吉・本多忠勝らに命じて神田山を切り崩し、豊島の洲を埋め立てさせた。慶長9年(1604年)8月からは江戸城普請のための石垣工事が始まり、築城の名人とされた藤堂高虎に基本設計を任せ、福島正則・加藤清正・池田輝政・黒田長政・細川忠利といった、遠国に住む豊臣恩顧の大名までもが動員された。家康自身は駿府に移り住むことを決めており、この築城はまぎれもなく二代将軍となった秀忠のためであり、その築城に豊臣恩顧の大名を動員することで、豊臣時代の終焉徳川時代の到来を天下に公言するものでもあった。歴史は着々と、家康の描いたとおりに動き始めていた。

 家康が最初に豊臣秀頼へ上洛要請をしたのは、慶長10年(1605年)5月のことで、秀忠が伏見城で将軍宣下を受けた翌月だった。ドラマにあったように、家康は高台院(おね)を介在して大坂城に居城する秀頼に対し、秀忠の将軍就任を祝うために上洛せよと呼びかけるも、これに激昂した淀殿が、「上洛を強制するならば秀頼と共に自害する。」といって頑なに拒絶したのもドラマにあったとおり。大坂城で秀頼を補佐する淀殿は、徳川家の権力が強大化して実質的な天下の覇者となっても、あくまで徳川家を豊臣家の家臣と見なす見方を変えなかった。いや、変えたくなかったという見方が正しいだろう。このあたりの淀殿に、もしもっと柔軟な思考があったならば、のちの彼女と秀頼の運命も変わっていたかもしれない。

 家康の秀頼に対する二度目の上洛要請は、慶長16年(1611年)3月、後水尾天皇の即位に立ちあうため、駿府城から家康が上洛した際であった。このときも6年前と同じく淀殿は、「主家である秀頼を京に呼びつけるとは何事か。家康のほうこそ大坂に下ってくるのが道理であろう。」と激昂したが、天下の軍事の形勢は完全に徳川に傾いており、秀吉恩顧の加藤清正浅野幸長の懸命な諫言もあって、やむなく秀頼の上洛を同意する。このとき、豊臣秀頼19歳。6年前の上洛要請時と比べれば随分と大人になっており、ドラマのように、自分の意志で上洛を決意したのかもしれない。このときまで、一歩も大坂城の外に出たことがなかったと言われる秀頼だが、これが彼にとっての親離れの瞬間だったといってもいいかもしれない。一方、淀殿は、最後まで子離れができなかった・・・ということだろうか・・・。いってみれば、モンスターペアレントの元祖とでもいうか・・・。

 秀頼の上洛は、「妻の千姫の祖父に挨拶する」という名目で実現した。会見場所は京都二条城。道中は、加藤清正浅野幸長らの厳重な警護のもとに行われ、更には、片桐且元・片桐貞隆・織田有楽・大野治長などの重臣が連れ添った。ドラマでは、家康が上座に着いていたが、これについては物語によって様々である。形式的には、まだ豊臣の家臣である家康が上座に着くのはおかしい、といった見方もあるが、正妻の祖父に挨拶するという名目である以上、家康が上座でも格好がつくともいえる。いずれにせよ、家康の呼び出しに秀頼が答えたかたちには違いなく、公式に豊臣家が徳川家の家臣になったわけではないが、事実上そう解釈した諸大名は多かったであろう。すべては家康の思惑どおりだった。

 しかし、当の家康自身は、この会見で豊臣秀頼という人物の成長ぶりを目の当たりにし、逆に恐怖を覚えたという。秀頼は身の丈6尺5寸(約197cm)の並外れた巨漢であったとされ、それでいて思慮分別に長け、老成人の風格を備えた人物であったと伝わる。家康はこの会見で、秀頼に落ち度があった場合はそれに難癖をつけ、豊臣家を弱体化させる口実にしようと考えていたと言われるが、家康の前に現れた秀頼は、そんな家康を驚かせるほどの立派な若者に成長していたのである。一説には、家康はこのとき秀頼からかもし出されるカリスマ性に恐怖を覚え、豊臣家を滅ぼすことを決意したとも伝わる。真意がどうだったかはわからないが、実質これ以後、家康の豊臣家討伐の姿勢が露骨になっていったのは事実であり、案外、的外れでもないように思う。身の丈6尺5寸は大袈裟としても、家康が恐怖する何かを、秀頼は持っていたのだろう。逆に秀頼がそれほど聡明な人物だったとすれば、このときの家康の心中を察したかもしれない。しかし、いくら秀頼がカリスマ性に富んだ偉丈夫であったとしても、海千山千の家康にまともに対峙してかなうはずもなく、ただ1点、家康に勝てる部分があるとしたら、残された寿命だけであった。

家康 「しかし、母君がよう出されたものじゃな・・・。」
秀頼 「私が望みました。」
家康 「ほう、なにゆえ来ようと?」
秀頼 「・・・詫びを・・・言いたいと・・・。」
家康 「・・・詫び?」
秀頼 「かつては、亡き父、太閤殿下に服従を強いられ、さらには国替えをされ、江戸に追いやられ、積もり積もった恨みもおありでしょう。それでもなお、豊臣のために働いてくださること、ありがたく存じまする。これからも徳川殿と共に・・・徳川殿と共に、泰平の世を築くこと、共に考えてまいりたいと思います。よろしく頼みまする。」

 この会見時の徳川家康、御年70歳。自分の目の黒いうちに、コイツ(秀頼)をなんとかしなければ・・・きっと、そう思ったに違いない。健康には人一倍気を使っていた家康といえども、そう長くは生きられないことは自覚していたはず。大坂冬の陣が起きるのは、この会見から3年後のことである。



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by sakanoueno-kumo | 2011-10-11 00:50 | 江~姫たちの戦国~ | Comments(0)