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2013年 08月 13日 ( 1 )

 

八重の桜 第32話「兄の見取り図」 ~山本覚馬の人物像~

 明治4年(1871年)、八重は処刑されたと思っていた兄・山本覚馬が生きていたことを知り、兄を訪ねて京都に訪れます。実に9年ぶりの再開でした。これまで当ブログでは、山本覚馬についてあまりふれて来なかったので(本筋である戊辰戦争に添っていくと、どうしても覚馬の話は横道にそれてしまうため)、ここで改めて、覚馬についてお復習してみましょう。

 鳥羽・伏見の戦いのとき、既に視力を失いかけていた覚馬は、戦争には参加していませんでしたが、京都近郊で薩摩藩兵に捕らえられ、薩摩藩邸内の獄舎に入れられます。しかし、覚馬の優秀さは諸藩の間で知られており、また、薩摩藩代表の西郷隆盛とも面識があったことから、決して粗略には扱われなかったようです。ただ、それでも獄中生活であることに変わりはなく、覚馬の身体は次第に衰弱し、やがて視力は完全に失い、脊髄も損傷し、ついには自力で歩行できないほどの身体になってしまいます。

 そんな過酷な獄中生活のなか、覚馬は自身の考えを口述して筆記させ、『管見』というタイトルの建白書を薩摩藩主宛に提出します。「管見」という単語を辞書で調べると、「知識や考え、意見などが狭くてつまらないものであること」とあります。つまりは、自分の意見を謙遜して使う古い言葉ですが、その内容は決して狭くてつまらないものではなく、政治、経済、外交、教育など、今後の日本のとるべき道が実に明確に示されていました。その先見性に、西郷隆盛や小松帯刀は大いに感服したといいます。

 やがて釈放された覚馬は、明治3年(1870年)4月14日付けで京都府に登用され、京都府権大惨事として府の実験を握っていた長州藩出身の槇村正直の顧問として、府政に関わります。当時の京都は、東京遷都のあおりをモロに受け、寂れかけていました。御所の周りの公家屋敷や武家屋敷が無人となり、それらの需要で成り立っていた京都の経済は一気に冷え込み、京都を去る町人らも続出します。

 明治政府は、荒廃していた「千年の都」をどうにか経済で立て直そうと、明治2年(1869年)には「勧業起立金」として15万両、翌明治3年(1870年)には「産業起立金」として10万両をつぎ込みます。京都府はこの資金を元に、殖産興業を推進して京都再生を図るのですが、その中心にいたのが槇村正直で、その知恵袋として活躍したのが覚馬でした。八重たちが京都にやってきたのは、そんなときだったわけです。

 「兄さまは人が違ったみてえだ。長州の者と笑って話して平気なのがし? 憎くはねえのですか?」

 槙村の下で働く覚馬を理解できない八重がいった台詞ですが、そんな八重に覚馬はこういいます。

 「殿は徳川を守り、都を守り、帝をお守りするその一心で京都守護の御役目を続けてこられた。だけんじょ、もっと大きな力が世の中をひっくり返した。薩摩や長州が会津を滅ぼしに行くのを、止められなかった・・・・。これは俺の戦だ!会津を捨石にしてつくり上げた今の政府は間違ってる。だけんじょ、同じ国の者同士、銃を撃ちあって殺しあう戦は、もうしてはなんねえ!」

 覚馬とて、故郷の会津が滅んだ無念さは同じだったでしょう。でも、その憎しみの矛先が薩摩や長州じゃないことがわかっていたんでしょうね。会津を滅ぼしたのは薩長ではなく、大きな歴史の波にのまれて押しつぶされたということを・・・。だから、薩長を憎んだところではじまらない。覚馬のみならず、元徳川方にいて新政府に仕えた者たちは、皆、わかっていたかもしれませんね。むしろ、わかっていなかったのは薩長閥のなかにいた人たちだったのではないでしょうか。自分たちの力のみで幕府を倒したという思いあがりが、のちの薩長閥政府を作り上げたといえるかも知れません。

 「何かひとつ違うちょったら、薩摩と会津は立場が入れ替わっちょたじゃろう。そげんなっちょったら、薩摩は全藩討死に覚悟で征討軍と戦をした。新しか国を作るため、戦わんならんこつになったどん、おいは会津と薩摩はどっか似た国じゃち思うちょった。武士の魂が通う国同士じゃち・・・。」

 この人は、わかっていたかもしれませんね。


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by sakanoueno-kumo | 2013-08-13 19:26 | 八重の桜 | Trackback(1) | Comments(0)