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2014年 09月 04日 ( 1 )

 

軍師官兵衛 第35話「秀吉のたくらみ」 ~伴天連追放令~

 九州を平定した豊臣秀吉は、筑前滞在中の天正15年(1587年)7月、キリスト教南蛮貿易に関する禁制文書を発令します。いわゆる「伴天連(バテレン)追放令」ですね。これまで、キリスト教の布教を容認していた織田信長の政策をそのまま継承していた秀吉でしたから、まったくもって突然の通達といった印象で、キリスト教信者にとってはまさに青天の霹靂だったことでしょう。

 秀吉が伴天連追放令を出した理由については、諸説あって定説がありません。一説には、日々拡大しつつあるキリスト教の勢力に、かつて信長を苦しめた一向一揆の姿を重ね合わせたためとも言われますし、また別の説では、キリスト教信者による神道・仏教への迫害があったためとも言われます。たしかに、領民を無理やりキリスト教に改宗させたり、神社や寺院の破壊活動などの暴挙あったようで、あながち的外れな見方ではなかったようです。

 フランシスコ・ザビエルが日本にキリスト教を伝えてからほぼ半世紀。小さなコミュニティに過ぎなかった時代は見過ごせていたものが、信長の時代を経ていつの間にか巨大化しつつあったキリシタン勢力を、このまま野放しにしておくわけにはいかなかったのでしょうね。信長とて、南蛮貿易によるを得るためにキリスト教を容認していただけで、積極的に推奨していたわけではなかったでしょう。秀吉も、同じ理由で踏襲していたものの、利よりもが大きくなり始めたため、弾圧に踏み切ったものと考えられます。よく、のちの朝鮮出兵と並んで秀吉の悪政としてあげられるこの伴天連追放令ですが、それとこれとは少し違うんじゃないでしょうかね。

 黒田官兵衛がキリシタンだったことはよく知られていますが、意外なほどそれを裏付ける史料は乏しいようです。黒田家の正史とされる『黒田家譜』でも、官兵衛がキリシタンだったことにはまったく触れていません(これについては、禁教令が敷かれていた江戸時代に編纂された史料のため、隠匿されたと考えられています)。確認できる史料として、ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスの書状によると、官兵衛がキリスト教に入信したのは天正11年(1583年)のこととされています。時期的には、大坂城普請や毛利氏との領土問題で奔走していた頃ですね。入信を薦めたのは、ドラマのとおり高山右近だったようです。なぜ入信したのかはわかっていませんが、おそらく右近の熱心な勧誘があったんじゃないでしょうか。

 官兵衛は「ドン・シメオン」という洗礼名を授かり、「Simeon Josui」というローマ字印を押した書状が現代に残っています。シメオンとは古代ユダヤに由来する男性名だそうで、「聞く、耳を傾ける」という意味だそうです。

 秀吉の伴天連追放令が発布されると、官兵衛はただちに棄教したといわれますが、同じキリシタン大名である小西行長の家臣らが追放されると密かに召し抱えたりと、表面的には棄教しながら、信仰心は持っていたのかもしれません。官兵衛に入信を薦めたとされる高山右近はキリスト教を捨てることが出来ず、領地、財産を捨てて諸国を転々としたのち、最終的にはマニラに逃れます。かつての主君だった荒木村重のことは裏切った右近でしたが、キリスト教は捨てられなかった。よほど信仰に厚かったようですね。

 以後、秀吉の死後もキリスト教に対する弾圧は継承され、キリスト教に門戸が開かれるのは、250年後の黒船来航まで待つことになります。


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by sakanoueno-kumo | 2014-09-04 18:57 | 軍師官兵衛 | Trackback(1) | Comments(13)