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2016年 01月 18日 ( 1 )

 

真田丸 第2話「決断」 ~裏切り者たちの末路~

e0158128_22451998.jpg 小山田信茂の寝返りによって逃げ場を失った武田勝頼は、武田氏ゆかりの地である天目山棲雲寺を目指しました。しかし、天目山麓の田野村まで来たときに織田軍の追撃を受け、抵抗及ばず自刃して果てます。新府城を発ったときには200人ほどいた家臣団も、最後は43人になっていたとか。『甲陽軍鑑』『甲乱記』などの記述では、勝頼主従の最期は華々しく戦って討死したとありますが、『信長公記』では、「落人の哀れさ、なかなか目も当てられぬ次第なり」とあります。実際には、43人の手勢ではなすすべもなかったでしょう。享年37歳。このとき、16歳の嫡子・武田信勝もともに自刃しました。ここに、450年の歴史を誇る名門武田氏は滅亡します。

 戦国の世のならいとはいえ、凋落しはじめた武田家内での裏切り、寝返りは酷いものでした。とくに、木曽義昌、穴山梅雪という二人の武田信玄の娘婿の寝返りが、武田氏の崩壊を一気に加速させたことは間違いありません。その事実から、武田勝頼という武将を「無能」と評する見方がありますが、一方で、同時代の書状などによれば、武勇には優れた武将だったともいわれ、評価の分かれるところです。ただ、勝頼のいちばんの失敗は、この前年に兵糧攻めにあっていた高天神城の城兵を見捨てたことだったでしょう。これにより、主従の信頼関係は致命的に瓦解したと言われています。

 立て続けの謀反によって滅亡の一途を辿った武田家でしたが、寝返った武将たちも、結局は厳しい末路をたどります。最初に反旗を翻した木曽義昌は、その戦功により織田氏傘下で知行を得ますが、ほどなく本能寺の変が起きると行き場を失い、その後、上杉氏、北条氏、徳川氏の間を渡り歩きながら、最後は豊臣政権のもと、不遇の扱いを受けます。また、徳川氏に内通して寝返った穴山梅雪は、その後、徳川氏の傘下に入りますが、本能寺の変が起きると、家康とともに畿内の脱出をはかりますが、その途上で落ち武者狩りの百姓に襲撃されて落命します。

e0158128_22492256.jpg そして、最後の最期に裏切って武田氏滅亡のとどめを刺したといっていい小山田信茂は、ドラマで描かれていたとおり、織田信忠本陣に投降して傘下に入ろうとしますが、その不忠を責められ、一族すべて処刑されました。信茂にしてみれば、多少、知行は減らされても、義昌、梅雪のように織田氏傘下で生き延びられると見込んでいたのでしょうね。ところが、織田家は信茂のみ不忠者とみなした。ドラマでは、義昌、梅雪は織田方の調略によって寝返ったが、信茂は最後に主君を見捨てた不届き者、という理由でした。そんな卑怯な奴は仲間に入れてやらない!・・・と。まあ、どちらも裏切りには違いないのですが、勝敗が決したあとの寝返りというのは、たとえ戦国の世であっても、卑劣な行為だったのでしょうか。それとも、ただ単に、信茂は利用価値がないとみなされたのかもしれないですけどね。

 さて、真田家です。『長国寺殿御事績稿』によると、真田昌幸は勝頼の死を知ると泣き叫び、小山田信茂に復讐しようといきり立ち、周囲に止められたと記されています。でも、どうもこの話は昌幸らしくないですね。実際には、昌幸は早くから武田氏の滅亡を予測しており、生き残りの道を模索していたことが史料で明らかになっています。そのひとつが北条氏からの書状。昌幸は、勝頼の死の5日前に、叔父の矢沢頼綱沼田城の守りを強化するよう指示した書状を送っていますが、一方で、勝頼の死の翌日付で北条氏邦が昌幸宛に送った書状が残っており、それによれば、昌幸が以前から北条氏に接触をはかり、帰属を打診していたことが確認されます。つまり、昌幸は、沼田城の守りを固めて北条氏を警戒しながら、一方で、北条氏に帰属する道を模索するという、両道の外交策を採っていたんですね。

 自家の生き残りを再優先に考えていた点では、真田家も小山田家も同じこと。昌幸が岩櫃城への退避を勝頼に勧めたのも、北条氏を頼って武田氏存続を考えたのかもしれませんし、あるいは、はじめから勝頼は岩櫃城に来ることはないと読んで、自家防衛のために岩櫃城退避を献策したのかもしれません。もし、勝頼が昌幸の進言を聞いて岩櫃城に来ていたら、あるいは昌幸も信茂と同じことをしたかもしれませんよ。戦国の世を生き延びるには、忠義なんて何の役にも立たなかったでしょうから。



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by sakanoueno-kumo | 2016-01-18 22:50 | 真田丸 | Comments(2)