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2016年 03月 15日 ( 1 )

 

真田丸 第10話「妙手」 ~北条軍の沼田城攻めと上田城築城~

 天正10年(1582年)10月29日、徳川家康北条氏直和睦、同盟を結びますが、このとき、両氏が出しあった和睦の条件として、北条氏は甲斐国都留郡と信濃国佐久郡を徳川方に渡し、徳川氏は、北条氏の上野国領有を認め、真田昌幸が支配する沼田・吾妻領を引き渡すというものがありました。ところが、これを聞いた昌幸は、当然納得できません。沼田・吾妻領は自分たちの手で血を流して切り取った領地であり、徳川氏から割譲されたものではないというのが、その言い分でした。至極もっともな理由ですが、徳川氏の参加に下っている立場でこれを主張することは、徳川氏との関係を悪くしかねないことです。既に上杉氏、北条氏を裏切って徳川氏に与した真田氏としては、結構な賭けだったでしょうね。事実、家康は困惑します。

 ドラマでは、沼田城明け渡しの交渉に訪れた北条氏の使者を、沼田城を任されていた昌幸の叔父・矢沢頼綱がその場で斬り殺してしまい、これに憤慨した北条氏が、沼田城攻撃を開始するというシナリオでしたね。この話が史実なのかはわかりませんが、もともと沼田領引渡しの条件は、真田氏がのまなければ、北条氏が力ずくで奪い取ってもかまわないというのが徳川氏との約束で、北条氏にしてみれば、正当な武力行使でした。当然、家康が真田を援護することはなく、高みの見物です。

 北条軍が攻撃を開始したのは、年が明けた天正11年(1582年)2月のことでした。矢沢頼綱は沼田城に籠城し、岩櫃城を任されていた昌幸の嫡男・真田信幸と連携して一歩も引かぬ徹底抗戦を展開します。さすがの北条軍も、沼田城の頑強な抵抗に手を焼きます。

 同じ頃、真田氏は北の上杉氏とも睨み合っていました。真田氏が徳川氏の傘下に入り、その徳川氏が北条氏と同盟を結んだことを受け、北信濃の上杉領の危機と判断した上杉景勝は、警戒を強めます。そして、真田領を見下ろすようにそびえる虚空蔵山の山頂にある虚空蔵山城の防備を固めます。これを受け、昌幸の弟・真田信尹は上杉氏の家臣・島津忠直に向けて、信濃侵攻の意図はないとの書状を送りますが、その直後の3月21日、昌幸は虚空蔵山城に奇襲をかけます。おそらく、兄弟しめしあわせての策だったでしょう。この奇襲で、上杉方は甚大な被害を受けたといいますが、かろうじて真田軍を撃退し、城を守りきります。

 ドラマでは、この上杉攻めが真田信繁の仕組んだ芝居だったとされていましたね。この戦いで真田軍を撃破した上杉軍が、南下して沼田城に攻め込むとの流言をばらまき、みごと沼田城を包囲する北条軍を撤退させることに成功します。しかし、実際にはそのような事実があったとは考えられず、すべてドラマのオリジナルです。史実では、下野国南部と東上野で反北条氏の勢力が叛乱を起こし、北条軍はその対応のために、沼田城攻めを一時中断せざるを得なくなったからでした。また、沼田城を守る矢沢頼綱に上杉氏から帰属を促す書状が届き、これを受けた頼綱が、帰属を条件に援軍を求めたともいいます。実際に上杉の援軍を得られたかどうかは定かではありませんが、いずれにせよ、この戦に信繁が関わったという史料は存在しません。まだ15~6歳ですからね。あるいは、この頃に初陣を果たしていたかもしれませんが、重責を任されるようなことはなかったでしょう。面白い設定ではありましたけどね。

 上田城の築城が開始されたのは、この戦いの真っ只中の天正11年(1583年)4月のことでした。その普請を家康から任されたのが昌幸だったといわれますが(異説あり)、当初は上杉氏を牽制するための徳川方の城として築かれたものが、のちに真田氏が上杉方に付いたことにより、逆に徳川方と対峙するための戦略拠点となります。つまり、昌幸は徳川氏の支援を受けて、徳川氏と戦うための城を自領に築いたわけです。これが、ドラマのように築城当初から徳川氏を裏切ることを想定していたのか、あるいは、結果的にそうなったのかはわかりません。もし、前者なら、やはり昌幸という人物はそうとうなしたたか者ですね。いずれにせよ、家康はこのとき、のちに昌幸に二度の敗北を喫することになる舞台を、自らの支援で築いたわけです。歴史って面白いですね。



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by sakanoueno-kumo | 2016-03-15 00:00 | 真田丸 | Trackback(1) | Comments(0)