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2016年 03月 22日 ( 1 )

 

真田丸 第11話「祝言」 ~室賀正武の真田昌幸暗殺未遂事件~

 徳川氏と北条氏の和睦条件である沼田・吾妻領の引渡しについて、徳川家康は再三再四、真田昌幸にこれを要請しますが、昌幸は頑なにこれを拒否します。さすがに「鳴くまで待とう時鳥」の家康もこれには業を煮やし、昌幸暗殺を画策したという逸話が伝わります。それと真田信繁の祝言を絡めたのが、今話の設定でした。


 北条氏と和睦した家康は、天正11年(1583年)から翌年にかけて上方の羽柴秀吉と対立し、小牧長久手の戦いに至るのですが、このとき家康は、同盟関係にあった北条氏に援軍を要請します。すると北条氏政、氏直親子は、ここぞとばかりに暗礁に乗り上げたままの沼田・吾妻領の引渡し問題の解決を迫ります。しかし、昌幸は相変わらずこれに応じる姿勢を見せません。しびれを切らした家康は、天正12年(1584年)6月、昌幸暗殺を計画します。

 刺客を命じられたのは、昌幸と同じ小県郡の国衆・室賀正武でした。かつて室賀氏は真田氏と同じく旧武田氏に仕え、武田氏滅亡後は織田家臣・森長可に臣従します。ドラマでは、昌幸らと共に小県郡の連合国の形成を目指していたように描かれていましたが、実際には、本能寺の変後、昌幸と正武は別行動をとり、この時期は、千曲川をはさんで北側を真田氏、南側を室賀氏が支配していました。

 江戸時代初期に編纂された『加沢記』によると、天正12年(1584年)6月、正武は家康の家臣・鳥居元忠より昌幸の暗殺を要請され、これを承諾。翌7月、上方から囲碁の名手が昌幸のもとを訪れることになり、正武も上田城に招待されます。信繁の祝言ではありません。この招きを千載一遇のチャンスと考えた正武は、一門の室賀孫右衛門を鳥居元忠のもとへ派遣し、援軍を要請します。ところが、孫右衛門はすでに昌幸に内通しており、暗殺の計画はたちまち昌幸の知るところとなります。昌幸は武田氏滅亡の直後から室賀氏の家臣の多くを調略し、そのほとんどに内通させていたといいます。そんなこととはつゆ知らず、正武はわずかな供回りを連れて上田城に参上。入城した正武は書院に通され、次の間に控えていた真田家臣によって殺害されました。

 家康が正武に昌幸暗殺の密命を下したという逸話は、主に軍記物に記されているのみで、確実な史料に乏しいようですが、正武が昌幸によって殺害されたというのはまぎれもない史実です。二人がどのような間柄だったかはわかりませんが、この時期、昌幸は正武を亡き者にしなければならないなんらかの理由が生じたのでしょう。このあと室賀一族が徳川氏の甲斐国に亡命していること、そしてこれを機に真田氏が徳川氏と断交し、上杉氏の配下に転じる道を探り始めたことなどからみて、家康の昌幸暗殺未遂の逸話は、じゅうぶんにあり得ると思えます。

 昌幸と正武の囲碁のシーンは見応えがありましたね。囲碁もまつりごとも、相手の意を読み裏をかく心理戦。囲碁では正武のほうが上段者でしたが、策略では昌幸のほうが上手でした。囲碁には、下段者が黒石で先手を打つというルールがあります。
 「わしに勝ったことがないではないか。」
といった正武は、当然、白石で後手。すべての計略を見透かされ、
 「お主の負けじゃ。わしの家来になれ。」
と昌幸に言われた正武は、
 「わしの勝ちじゃ。」
と言って白石をおく。このあたりの演出、ディテールはみごとでした。

 昌幸も正武も、中小企業の経営者として大企業に押しつぶされないよう懸命にもがいていました。共存共栄なんて綺麗事を言っていると、共倒れとなります。ライバル会社を蹴落とさないと、自社が存続できません。今も昔も、中小企業の経営者の苦悩は同じですね。

 室賀正武を殺害したことにより、徳川氏との断交は不可避となります。これを機に、昌幸の目は、また北に向けられます。



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by sakanoueno-kumo | 2016-03-22 16:23 | 真田丸 | Trackback(1) | Comments(2)