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2016年 06月 03日 ( 1 )

 

「本能寺の変」記念日に再考する歴史のターニングポイント <後編>

記念日を1日過ぎちゃいましたが、昨日の続きです。

今回は、現在の本能寺を訪れました。

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織田信長が横死した「本能寺の変」の7年後にあたる天正17年(1589年)、豊臣秀吉が行った都市計画の区画整理でこの地に移されました。

旧本能寺跡地からは、直線距離にして1.2kmほどに位置します。

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その後も、天明8年(1788年)1月30日に起きた「天明の大火」、そして幕末の元治元年(1864年)7月18日に起きた「元治の大火」によって消失し、現在の本堂は昭和3年(1928年)に再建されたものだそうです。

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境内には、信長の廟所があります。

「本能寺の変」から1ヶ月後に信長の三男・信孝が焼け跡から燼骨を収集し、本能寺跡に墓所を建てたそうですが、その後、同寺の移転とともに、墓所もこの地に移されたそうです。

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いままで数々の小説やドラマなどになってきた「本能寺の変」ですが、どの作品でも概ね同じ描かれ方で、本能寺を包囲した明智軍鉄砲隊で攻撃し、それを信長自身もをとって応戦するも、腕に銃弾を受け、やがて観念した信長は、殿舎に火を放たせて自刃する、というものですよね。

これまで何度も観てきたシーンですが、これがどれほど事実かといえば、複数の史料を元にした、かなり信憑性の高い描写のようです。

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まず、信長の史料として最も信頼されている『信長公記』の記述から。

「是れは謀叛か、如何なる者の企てぞと、御諚のところに、森乱申す様に、明智が者と見え申し候と、言上候へば、是非に及ばずと、上意候。」

有名な「是非に及ばず」の台詞は、ここに記されているものです。

「言うまでもない、戦うまでだ!」といった意味でしょう。

また、同史料によると、

「信長、初めには御弓を取り合ひ、二・三つ遊ばし候へば、何れも時刻到来候て、御弓の弦切れ、その後、御鎗にて御戦ひなされ、御肘に鎗疵を被り、引き退き、これまで御そばに女どもつきそひて居り申し候を、女はくるしからず、急ぎ罷り出でよと、仰せられ、追ひ出させられ、既に御殿に火を懸け、焼け来たり候。
御姿を御見せあるまじきと、おぼしめされ候か。殿中奥深入り給ひ、内よりも御南戸の口を引き立て、無情に御腹めさる」


信長は、初めはで、弦が切れてからはで応戦したが、肘に槍傷を受けたため退き、女中たちを逃がし、御殿に火をつけて自害した・・・とあります。

『信長公記』の著者は信長の家臣だった太田牛一という人ですが、彼自身は本能寺にはいなかったものの、逃された女たちに取材して書いたものだそうです。

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また別の史料としては、ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスの著書『日本史』に、次のように記されています。

「厠から出てきて手と顔を洗っていた信長の背中に、明智方の者が放った矢が命中した。信長はその矢を引き抜き、鎌のような武器(長刀)を手にしてしばらく戦ったが、明智方の鉄砲隊が放った弾丸が左肩に命中すると、自ら部屋に入って障子を閉じ、火を放って自害した」

『信長公記』と少し違うところもありますが、概ね同じストーリーですよね。

『信長公記』が書かれたのはフロイスの死後のことで、同じような描写が日本とヨーロッパで執筆されていることを思えば、ほぼ史実とみていいのでしょう。

炎の中に消えた信長が、どんな死に方をしたかは、想像するしかありませんが。

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写真は「本能寺の変」で命を落とした側近たちの慰霊塔

森蘭丸らの名前も見られます。

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日本史のなかには、その時代時代に数々のターニングポイントがありますが、その中でも、この「本能寺の変」いちばんの分岐点だったとわたしは思います。

天下分け目といわれる「関ヶ原の戦い」ですが、もし、西軍が勝っていたとしても、やはり豊臣政権は長続きしなかったでしょうし、となれば、結局は250万石を有する徳川家覇権が移っていた可能性が高いでしょう。

もし、後醍醐天皇が事を起こさなくても、遠からず鎌倉幕府滅亡していたでしょうし、もし、ペリー艦隊が来航しなくても、他国から何らかの圧力がかかって、結局は明治維新を迎えていたでしょう。

どれも、微妙な狂いは起きていたでしょうが、たぶん、似たような歴史を歩んだと思うんですね。

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ところが、この「本能寺の変」だけは、もし起きていなければ全然違う歴史を辿った可能性が極めて高いといえます。

信長が横死しなければ、当然、豊臣政権はなかったわけですし、となれば、のちの徳川政権も、言うまでもなく存在しません。

現代のわたしたち日本人の国民性は、ほぼ徳川期250年で形成されたといわれますから、もし、徳川政権時代がなければ、日本はずいぶんと違った国になっていたでしょう。

そう考えれば、「本能寺の変」が変えた歴史というのは計り知れないといえます。

一般に「明智光秀の三日天下」などと言われますが、たしかに明智光秀自身が天下人になることはありませんでしたが、天下を大きく変えたという意味では、歴史上なくてはならなかった希有な人物といえます。

ある意味、「天下人」といえるかもしれませんね。

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日本史に興味がない人でも、「本能寺の変」を知らない人はほとんどいないでしょう。

それは、それだけ歴史的に大きな出来事だったからだといえます。

人はこの出来事を400年以上もの長きにわたって語り継ぎ、人間の持つ「おごり」や、人の上に立つ者の「心得」を学び得てきたのかもしれません。

その意味では、後世のわたしたち道徳教科書として、大きな意味を持った歴史の必然だったのかもしれませんね。

温故知新です。




「本能寺の変」記念日に再考する歴史のターニングポイント <前編>



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by sakanoueno-kumo | 2016-06-03 01:40 | 京都の史跡・観光 | Trackback | Comments(2)