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2017年 10月 29日 ( 1 )

 

太平記を歩く。 その152 「丹下城跡(河内大塚山古墳)」 大阪府松原市

大阪府南部には、日本一大きな大仙古墳(仁徳天皇陵)をはじめとする大規模な古墳が数多くありますが、その中のひとつ、松原市にある河内大塚山古墳は、南北朝時代、北朝方に属する丹下氏が城を築いていました。

それが丹下城です。


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丹下氏は伊予橘氏の流れを汲む土豪武士で、河内国丹下を支配していました。

伊予橘氏の流れというと、楠木正成の楠木氏も同じで、おそらく遠縁にあたる一族だと思われますが、楠木氏は南朝方、丹下氏は北朝方に属していたんですね。


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延元2年/建武4年(1337年)3月、丹下三郎入道西念の大軍は、古市に陣を張っていた南朝軍を攻めました。

しかし、野中寺前で合戦となり、南朝軍の岸和田治氏によって、丹下氏は丹下城に追い立てられ、付近の民家も焼き払われたそうです。


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古墳がに利用されることは多く、河内にある古墳群のほとんどが、中世や戦国期に戦火に巻き込まれています。

丹下城が築かれた河内大塚山古墳は、日本で5番目に大きな古墳で、全長は335m、後円部直径は185m、後円部の高さは20mあり、周囲に広い堀をめぐらせ、陣を張るにはもってこいの環境ですからね。


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その後、丹下氏は丹下城がしばしば襲われることから、すぐ西側に松原城をつくったと伝わりますが、松原城の正確な位置はわかっていません。

延元3年/建武4年(1338年)、南朝側の和田正興橋本正義らは、丹下氏の勢力拡大を恐れ、松原城を攻撃して陥落させました。

このとき、和田正興軍の高木遠盛によって丹下八郎太郎の子である能登房が討ち取られます。

まもなく松原城は落城したと伝えられますが、丹下城はその後、戦国期まで存在したようで、天正3年(1575年)の織田信長による河内国城郭破却令によって廃城となり、丹下氏は城を退去して帰農したと伝わります。




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by sakanoueno-kumo | 2017-10-29 00:41 | 太平記を歩く | Comments(0)