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2018年 01月 23日 ( 1 )

 

太平記を歩く。 その186 「御所八幡宮」 京都市中京区

「その157」で紹介した「足利尊氏邸・等持寺跡」から高倉通を50mほど下ったところに、「御所八幡宮」という小さな神社があるのですが、ここも、足利尊氏ゆかりの場所です。


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応神天皇(第15代天皇)、その生母の神功皇后、そして比売神の三神を祭神とするここ御所八幡宮は、もとは御池通堺町西南角御所八幡町にあったそうですが、太平洋戦争中に御池通りの強制疎開によってこの地に移転されたそうです。


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神社の由緒書によると、鎌倉時代の弘安元年(1278)に二條内裏焼失したことにより、一時、公卿・中院通成三條坊門万里小路邸を内裏とした後宇多天皇(第91代天皇)が、邸内に石清水八幡宮を勧請したことに始まります。


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その後、時代が下って足利尊氏による室町幕府が樹立すると、副将軍の職にあった弟の足利直義がこの地に邸を構えていましたが、正平7年/文和元年(1352年)に直義が没すると、兄の尊氏は御所八幡宮を再興して足利氏の鎮守としました。


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この八幡社が「御所」八幡宮と呼ばれるのは、将軍である尊氏が鎮守としたことから由来し、尊氏の法名によって「等持寺八幡」とも、また、このあたりの地名をとって「高倉八幡」とも呼ばれてきました。


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ちなみに、直義の死は尊氏による毒殺という見方が一般的ですが、これは『太平記』のみが伝える説で、証拠となる史料は存在しません。

ただ、直義の死は尊氏による幽閉中だったこと、その死があまりにも突然だったこと、直義が没した日が奇しくも自身の宿敵であった高師直・師泰兄弟の一周忌に当たる日だったことなどから、あくまで推論の域を出ないにしても、毒殺説はかなりあり得る話だとわたしは思います。


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直義の死によって「観応の擾乱」は一応の決着を見ますが、直義派の武士による抵抗は、その後、尊氏の落胤で直義の養子となった足利直冬を盟主として、尊氏の死後まで続きます。


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現在、ここ御所八幡宮は安産・幼児の守り神として知られ、子供の夜泣き疳の虫退治に御利益があるという三宅八幡宮とともに「むし八幡」と呼ばれ、地元の人に親しまれています。




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by sakanoueno-kumo | 2018-01-23 23:59 | 太平記を歩く | Comments(0)