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2018年 04月 12日 ( 1 )

 

幕末京都逍遥 その31 「大村益次郎遺址」

前稿で紹介した「佐久間象山・大村益次郎遭難之碑」から木屋町通を挟んでほぼ向かい側に、「兵部大輔従三位大村益次郎公遺址」と刻まれた石碑があります。

ここは、大村益次郎が襲撃された宿所があった場所です。


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明治2年(1869年)8月、大村益次郎は軍事施設視察建設予定地の下見のため、京都に出張していました。

そして9月4日、この地にあった旅宿の奥座敷二階において、長州藩大隊指令の静間彦太郎、大村の鳩居堂時代の教え子で伏見兵学寮教師の安達幸之助らと会食中、元長州藩士の団伸二郎、同じく神代直人ら8人の刺客に襲われます。

一緒にいた静間と安達は即死、益次郎は重傷を負いました。

一説には、安達が「俺が大村だ!」と叫んで窓から逃げたため、刺客は安達を追い、そのおかげで益次郎はその場で死に至ることはなかったといいます。

しかし、こめかみや膝など6か所深手を負い、その状態で1階の風呂場の湯船に身をひそめていたため、右膝の傷が化膿してしまい、当初は河原町の長州藩邸で治療を受けていましたが、その後、蘭医ボードウィンの治療を受けるため大阪の病院に移ります。

しかし、膝の傷は思った以上に悪く、足を切断する必要に迫られますが、政府要人だった益次郎の足を切断するという大手術を勝手に進めることができず、勅許を東京の政府に要請しますが、その調整に手間取り、その結果、手遅れとなってしまいました。

果して10月27日に手術を受けるも、翌11月1日に敗血症による高熱を発して容態が悪化し、5日の夜に死去します。

享年46。

もともと医者だった益次郎でしたが、自身の傷は癒せませんでした。


幕末京都逍遥 その31 「大村益次郎遺址」_e0158128_16401085.jpg


益次郎襲撃の実行犯は直ちに逮捕されますが、その実行犯たちを操っていた黒幕は、旧薩摩藩士でこのとき京都弾正台大忠を務めていた海江田信義だったというのが定説となっています。

幕末には有村俊斎の名で知られた人物ですね。

海江田は戊辰戦争のときに東海道先鋒総督参謀を務めていましたが、このとき益次郎とことごとく対立し、根深い遺恨を持っていたとされています。

維新後、新政府の軍部の最高位である兵部大輔となった益次郎は、旧式の封建軍隊にかわる洋式の近代兵制の創立を推し進めますが、広く国民から徴兵するという益次郎の国民皆兵論は、士族の特権を脅かすものとして、多くの元武士たちの反感を買っていました。

その不平士族たちの感情を利用して海江田が彼らを扇動し、私怨をはらしたのではないかと言われています。

というのも、実行犯6名は弾正台によって処刑が言い渡されますが、その刑の執行の直前になって、弾正台の長官である海江田によって処刑が差し止められるという事態が起こります。

当時は司法制度が確立されておらず、警察が捕まえて裁くところまで全部行っていた時代ですから、長官の一存で処刑中止もできちゃったわけで・・・。

でも、やはり怪しいですよね。

益次郎と同郷の木戸孝允は、早くから海江田を危険視しており、このときの益次郎の京都出張にも反対していたといいますが、益次郎はそんな木戸の忠告も意に介さず、出張を強行したといいます。

益次郎死去の報を受けた木戸は、「大村ついに過る五日夜七時絶命のよし、実に痛感残意、悲しみ極まりて涙下らず、茫然気を失うごとし」と日記に綴っています。



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by sakanoueno-kumo | 2018-04-12 01:44 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(2)