2018年 05月 01日 ( 1 )

 

西郷どん 第16話「斉彬の遺言」 ~戊午の密勅~

e0158128_13034480.jpg 西郷吉之助(隆盛)が主君・島津斉彬急死を知ったのは、安政5年7月27日(1858年9月4日)頃、場所はおそらく京都の西郷たちの定宿・鍵直旅館だったと思われます。その報せは、まさに青天の霹靂、西郷にとっては人生最大の衝撃だったであろうことは想像に難しくありません。作家・海音寺潮五郎の言葉を借りると、西郷にとって斉彬は主君であり、恩師であり、慈父であり、でした。報せを受けた西郷は、すぐさま殉死を決意したといいます。それを思い止まらせたのが、清水寺塔頭・成就院の住職・月照でした。


 月照は嘉永6年(1853年)の黒船来航以降、京や大阪で熱心に尊王攘夷の必要性を説いてまわっていたことから、尊王僧という異名を持っていたほどの尊王論者でした。また、先の将軍継嗣問題では、一橋派に与しており、西郷たちの政治活動にも、一方ならぬ協力をしてきた人物でもあります。当然、大老・井伊直弼の独断での日米修好通商条約調印に対しては、激しく反発します。


 一方、江戸では井伊の専横に対して一橋派の怒りは沸点に達します。そして、その急先鋒である水戸藩主の徳川斉昭、その息子の一橋慶喜、越前藩主の松平春嶽らは、安政5年(1858年)6月24日、カンカンに怒って江戸城に登城し、直弼に面会して激しくクレームをつけまくりました。これを受けた井伊は、ドラマでは「恐れ入りたてまつります。」ひょうひょうといなしていましたが、実際の井伊は、「呼びもしないのに無断で城内に上がってきて文句をいうなどけしからん!」と、斉昭は謹慎、慶喜は登城差し控え、春嶽と尾張藩主の徳川慶勝には隠居謹慎の処分を命じます。相手が親藩大藩の殿様であってもやりたい放題でした。


政敵を一掃した直弼の権力はいっそう高まり、ほとんど独裁状態となりますが、そうなると、当然、それを叩き潰そうという動きがはじまります。このとき最も働いたのが、梅田雲浜頼三樹三郎梁川星巌ら尊王派の学者たち、そして西郷でした。そんな彼らの働きによって、井伊大老を降ろせという幕府改革の勅諚が、孝明天皇(第121代天皇)より水戸藩へ下ります(異説あり)。これを、後世に「戊午(ぼご)の密勅」といいます。「密勅」とは、読んで字のごとく秘密の勅諚ですね。勅諚とは、天皇直々のお言葉のことですが、この時代、天皇が政治的発言を行うことはほとんどなく、ましてや、幕府を介さずに直接水戸藩に勅諚が下されるなど、前代未聞の出来事でした。


e0158128_20590455.jpg この情報を知った直弼は「これは反乱である!」大激怒し、水戸藩にその「勅書を返せ!」と迫り、そして朝廷に対して「なぜそんなものを出したのか!」と、猛烈に抗議します。朝廷に幕府の弾圧がかかるとなると、これまた前代未聞のこと。そこで朝廷を守るため、薩摩藩や越前藩が兵を挙げて京都に向かっている、といったが広まります。こうなると直弼は、その噂が本当なのかデマなのかを確認することなく、力には力で対抗する構えを見せ、徹底的な大弾圧を開始しました。その対象は、将軍継嗣問題で一橋派に与した者たち、梅田雲浜密勅問題で動いた者たちすべてひっ捕まえて裁判にかける。こうして、安政の大獄がはじまります。


 幕府方の追求は、西郷や月照にも及びます。西郷は同じく一橋派の公卿・近衛忠煕から月照の身柄の保護を依頼され、国元の薩摩藩に月照を亡命させる計画を立てます。ところが、その矢先に斉彬の訃報に接するんですね。そして、冒頭で紹介した月照が殉死しようとしていた西郷を諭したという逸話に繋がります。月照の助言によって殉死を思いとどまった西郷は、ともかくも月照を逃がすべく薩摩に向かいます。しかし、斉彬亡きあとの薩摩藩は、月照の身柄を受け入れられるほどの包容力はありませんでした。斉彬の死で大きな後ろ盾を失った西郷は、ここでまた、人生最大のピンチに立たされることになります。


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by sakanoueno-kumo | 2018-05-01 01:09 | 西郷どん | Trackback | Comments(0)