2018年 05月 03日 ( 1 )

 

幕末京都逍遥 その46 「中沼了三講書之所跡」

前稿で紹介した「梅田雲浜邸址」の石碑から300mほど北上したところに、「中沼了三先生講書所」と刻まれた石碑があります。


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中沼了三は隠岐出身の儒学者で、天保6年(1835年)に上洛し、鈴木遺音の門で儒学を学ぶと、天保14年(1843年)、この地にを開きます。

その門下には、西郷従道、桐野利秋、川村純義などの薩摩藩士が数多くおり、土佐藩の中岡慎太郎も、西郷隆盛との接触を図るために一時期、この塾に入門していたといいます。

弘化3年(1846年)には学習院講師となり、孝明天皇(第121代天皇)の侍講となります。


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慶応4年(1868年)の「鳥羽・伏見の戦い」では新政府軍の参謀として従軍し、同じ年の隠岐騒動(代官追放、隠岐国に自治政府樹立、松江藩兵隠岐で発砲、隠岐人14名戦死)では隠岐正義党の思想的支柱となります。

そして維新後、明治2年(1869年)には明治天皇(第122代天皇)の侍講となり、昌平学校の一等教授(正六位)を歴任するなど皇室からの信頼は厚く、高い名声を得ていました。


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しかし、その後、明治政府の三条実美、徳大寺実則らと対立し、明治3年(1870年)12月に官を辞すと、翌年に起きた「二卿事件」への関与を疑われて位階返上し、明治9年(1876年)「神風連の乱」でも関与を疑われ、明治29年(1896年)、京都浄土寺村の自邸にて81歳の生涯を閉じます。


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学者が管に就いた場合、対立して辞するというケースが多いですね。

学者は大概が理想主義者ですから、現実と向き合わねばならない管領には向いていないのでしょうね。




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by sakanoueno-kumo | 2018-05-03 00:11 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)