2018年 05月 10日 ( 1 )

 

幕末京都逍遥 その51 「土佐志士寓居跡」

東山の三十三間堂南大門の南に、かつて土佐藩出身の尊攘派志士が隠れ家としていた邸がありました。

現在、塩小路通に「この付近 坂本龍馬 北添佶摩など土佐志士寓居跡」と刻まれた石碑が建ちます。


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土佐藩士たちが隠れ家とした家は、河原屋五兵衛という人物の隠居所だったそうです。

河原屋五兵衛という人について調べかつかなかったのですが、説明板には、「瓦屋の五郎兵衛の意か」と書かれていたので、おそらく武士ではないのでしょう。

この当時、豪商たちが志士のパトロンとして援助するといった話は、よくあることでした。

ここに、石碑に刻まれた坂本龍馬北添佶摩をはじめ、中岡慎太郎望月亀弥太などが隠れ住んでいたといいます。

ここで、龍馬の妻となるお龍の母・と妹の君江が賄いとして働いていたんですね。

その縁で、龍馬とお龍が出会います。

まさに、ここが2人の出会いの場だったんですね。

時は元治元年(1864年)、 お龍24歳、龍馬30歳でした。

2人の出会いについて、お龍は回顧録で次のように語っています。


「名前は、聞かれ、『お龍』 と答えると 『わしと同じじゃ』 と二人はすぐに打ち解けました。お互いの身の上話で大いに盛り上がりました」(『千里駒後日譚』より)


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現地説明板によると、ここが土佐藩士たちの隠れ家だったことが、お龍の晩年の回想録「反魂香」に記録されているそうです。

それによると、「大仏南の門今熊の(野)道」の河原屋五兵衛の隠居所を借りて、「中岡慎太郎、元山(本山)七郎(北添佶磨)、松尾甲之進(望月亀弥太)、大里長次郎(大利鼎吉)、菅野覚衛(千屋寅之助)、池倉太(内蔵太)、平安佐輔(安岡金馬)、山岡甚馬、吉井玄蕃、早瀬某、等」と同居していたといいます。

これが事実かどうか、ながくわからなかったのですが、これを裏付けたのが、お龍の回想にも出てくる北添佶磨の書簡(元治元年(1864年)5月2日母宛)でした。

そこには、「私儀は此節は、洛東東山近辺瓦屋町と申す処へ居宅を借受け、外に同居の人五・六人も之れあり不自由なく相暮し居候」と記されており、ここの南向いの地名はいまも「本瓦町」で、北添が龍馬らと暮らしていた地であったにちがいないということになったそうです。


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北添の書簡から約1ヶ月後の元治元年6月5日(1864年7月8日)に起きた池田屋事件の際、ここも京都守護職などの役人に踏み込まれました。

龍馬らは不在でしたが、貞や君江などが連行されたそうです(まもなく釈放)。

ちなみに北添は池田屋事件で落命します。

その後、8月初旬、龍馬とお龍は青蓮院塔頭金蔵寺祝言を挙げることとなります。

次稿では、その祝言の地を訪れます。




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by sakanoueno-kumo | 2018-05-10 01:23 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)