2018年 05月 12日 ( 1 )

 

幕末京都逍遥 その53 「赤松小三郎遭難の地」

京都市営地下鉄烏丸線五条駅から東へ100mほど歩いて東洞院通を少し南下したあたりに、「贈従五位赤松小三郎先生記念」と刻まれた石碑があります。

ここは、信州上田藩士の赤松小三郎暗殺された場所です。


e0158128_23072988.jpg


赤松小三郎はそれほど有名ではありませんが、その経歴はあの坂本龍馬に似ています。

龍馬より先に勝海舟の門人となり、その従者として長崎海軍伝習所に赴き、航海術オランダ式兵学などを学びました。

慶応2年(1866年)には京都で私塾を開き、英国式兵学を教えました。

また、同時期には薩摩藩から兵学教授への就任を請われ、京都の薩摩藩邸において中村半次郎(のちの桐野利秋)や、のちに元帥海軍大将となる東郷平八郎ら約800人に英国式兵学を教えます。

一方で、慶応3年(1867年)には会津藩山本覚馬から依頼されて会津藩洋学校でも兵学を教えました。

討幕派、佐幕派のどちらにも兵学を教えたという珍しい経歴を持っています。


e0158128_23073333.jpg


赤松は、坂本龍馬が起草したとされる国家構想「船中八策」に先立つ慶応3年(1867年)5月に、前福井藩主の松平春嶽、薩摩藩国父の島津久光二院制国会創設など7項目の建白書「建白七策」を提出しています。

この建白書のなかで赤松は、二院制の議会の創設、選挙による議会政治、内閣総理大臣(赤松の訳語では「大閣老」)以下6人の大臣を議会が選出するという議院内閣制度など、現代にも通じる具体的な新国家構想を提唱しています。

一説には、龍馬の「船中八策」の原本が、この「建白七策」だったのではないかともいわれます(もっとも、「船中八策」の存在そのものを疑問視する見方もありますが)。

冒頭で、龍馬に似ていると述べましたが、龍馬が赤松の真似をしていたと考えたほうが正しいかもしれません。

赤松は慶応3年(1867年)8月に薩摩藩が長州藩と武力討幕計画を固めるなか、内戦の危機を回避しようと、薩摩の西郷隆盛小松帯刀、幕府の永井尚志らとギリギリまで交渉していた様子が兄宛の書簡からうかがえます。

これも、また龍馬と行動パターンが酷似していますね。

しかし、同年9月、京都から上田に帰る途中にこの地で待ち伏せていた中村半次郎(桐野利秋)らに暗殺されました。

その理由は、赤松が薩摩の軍事機密を知りすぎていたこと、薩摩の武力討幕路線に反対の立場だったことで、半次郎はその日記で、「幕奸だから斬った」と記述しています。

ただ、実行犯である半次郎が独断で行ったのか、あるいは半次郎に指示した人物がいたのかは定かではありません。

あるいは、半次郎に暗殺を指示したのは西郷だったんじゃないか・・・という見方もあるようですね。

このあたりも、龍馬暗殺の薩摩黒幕説と似ています。


e0158128_23073644.jpg


勝海舟への師事、航海術の習得、新国家構想の提言、そして暗殺。

どれもすべて坂本龍馬に先駆けていた赤松小三郎。

もうちょっと、スポットが当たってもいい人物なんじゃないでしょうか。




「幕末京都逍遥」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

幕末京都逍遥


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2018-05-12 20:50 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)