2018年 05月 24日 ( 1 )

 

幕末京都逍遥 その60 「中山邸跡(明治天皇生誕の地)(京都御苑)」

京都御所の北東にある、「中山邸跡」にやってきました。

ここは、幕末期の公卿、権大納言・中山忠能の邸があった場所です。


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中山忠能は、はじめは攘夷派の公卿として、「その58」で紹介した「廷臣八十八卿列参事件」にも中心人物として加わっていました。

しかし、その後、議奏となってからは公武合体派に身を転じ、孝明天皇(第121代天皇)の妹・和宮降嫁にも尽力しました。

その経緯から、和宮の江戸下向に随行しますが、これが一部の過激な尊皇攘夷派志士からの憤激を生み、議奏を辞職します。


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同じ頃、息子の中山忠光は尊皇攘夷派志士と交わって公武合体派の排除を画策し、天誅組の主将として大和にて挙兵しますが、幕府軍の攻撃によって敗れると、長州へ逃れた後、暗殺されました。


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父・忠能は、その翌年に起きた禁門の変(蛤御門の変)の際には長州藩を支持し、孝明天皇の怒りを買って処罰されます。

しかし、孝明天皇崩御後に復帰し、慶応3年(1867年)には討幕の密勅明治天皇(第122代天皇)から出させることにも尽力し、その後も岩倉具視らと協力して王政復古の大号令を実現させます。

将軍・徳川慶喜および徳川家の処置を定めた「小御所会議」では、司会も務めました。

中山忠能・忠光父子は、幕末の公卿のなかでは、珍しく気骨ある人物でした。

「安政の大獄」で処刑された福井藩士・橋本左内は、忠能のことを、「卓然たる人物で、学なけれども頗る才略あり」と評しています。


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ちなみに、忠能の娘の慶子孝明天皇(第121代天皇)の典侍となり、孝明天皇の第二皇子・祐宮を産みます。

その子が、のちに明治天皇(第122代天皇)となります。

嘉永5年9月22日(1852年11月3日)、明治天皇はここ中山邸の敷地内にあった産屋で生まれました。

産屋は、慶子の出産にあたり御産所として新築したものだそうで、現在も残されているそうですが、中山邸跡の敷地内には入れないため、外から眺めるだけです。


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敷地内には、「明治天皇生誕の地」と刻まれた柱が建てられています。




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by sakanoueno-kumo | 2018-05-24 23:47 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)