2018年 05月 26日 ( 1 )

 

幕末京都逍遥 その62 「皇女和宮生誕の地・橋本家跡(京都御苑)」

京都御所の西側中央付近に、「皇女和宮生誕の地(橋本家跡)」と書かれた木柱が建てられています。

江戸幕府第14代将軍・徳川家茂の正室となる和宮親子内親王は、弘化3年閏5月10日(1846年7月3日)、父が仁孝天皇(第120代天皇)、母は大納言・橋本実久の娘・経子の娘として、橋本家の屋敷があったこの地で生まれました。

孝明天皇(第121代天皇)の腹違いの妹となります。


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周知のとおり、和宮は幕府と朝廷が手を結ぶ「公武合体」の象徴として、徳川家に嫁ぎます。

「公武合体」とは、朝廷の権威を借りて幕府の権威を強固にしようという考えであり、威信が著しく落ちはじめていた幕府にとってみれば、藁をもつかむ策だったわけです。

なんとしても天皇家との縁談を成立させたい。

そこで、白羽の矢を立てられたのが、和宮でした。


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しかし、和宮は、代々親王家をつとめる有栖川家の皇子・有栖川宮熾仁親王と幼いときから婚約しており、話があった当初は、強く拒んだといいます。

しかし、兄の孝明天皇の強い意向をうけて、ついに徳川家への降嫁を承諾しました。

この婚礼は、天皇にとっても、幕政への発言権を強めるという意味では大きなメリットがあったわけです。


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文久元年10月20日(1861年11月22日)、16歳の花嫁・和宮の行列が京の都を出発。

行列は警護や人足を含めると総勢3万人に上り、行列の長さは50kmに及んだといいます。

和宮が通る沿道では、住民の外出・商売が禁じられた他、行列を高みから見ること、寺院の鐘等の鳴り物を鳴らすことも禁止され、犬猫は鳴声が聞こえない遠くに繋ぐこととされ、さらに火の用心が徹底されるなど厳重な警備が敷かれたといいます。


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徳川家大奥に入ってからも和宮は京風の生活を改めようとせず、姑の天璋院篤姫とのさまざまな確執があったとされますが、次第にわかり合い、慶応元年閏5月22日(1965年7月14日)、将軍・家茂が第二次長州征伐総大将として上方に向けて出立した際には、天璋院篤姫と共にお百度を踏んで夫の無事を祈っています。

しかし、その甲斐も虚しく家茂は大阪城にて病没

和宮は落飾し、名を静寛院宮と改めます。

わずか4年余りの結婚生活でした。


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その後、薩長軍による王政復古のクーデターが起き、戊辰戦争が始まると、徳川家の存続と前将軍・徳川慶喜助命嘆願のために天璋院篤姫と共に力を尽くします。

明治維新後は、亡き夫・家茂の生母である実成院とともに田安屋敷に移り、その後、明治2年(1869年)には京に戻りますが、明治7年(1874年)に再び東京に入り、その後は天璋院篤姫らと交流を持って穏やかな日々を過ごしますが、それも長くは続かず、明治10年(1877年)9月2日、脚気衝心のためにこの世を去ります。

32歳という若さでした。

当初、政府は葬儀を皇室に合わせて神式で行う予定でしたが、「家茂の側に葬って欲しい」という和宮の遺言を尊重するかたちで仏式で行われ、墓所は増上寺の家茂の側に葬られました。

徳川家歴代将軍のなかで、夫婦2人の墓が並ぶのは、天璋院篤姫と和宮の2組だけだそうです。

政局に利用され、思いもよらない人生を歩むことになった和宮でしたが、徳川家最後の御台所として、誇り高き最後を迎えたといえるのかもしれません。




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by sakanoueno-kumo | 2018-05-26 09:51 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)