2018年 06月 04日 ( 1 )

 

西郷どん 第21話「別れの唄」 ~国父・久光政権誕生と西郷の召喚~

 物語が一気に2年ほど経過したため、その間の薩摩藩内の動きを簡単に解説します。


e0158128_17375658.jpg安政7年3月3日(1860年3月24日)に桜田門外の変が起きると、大久保正助(一蔵・利通)は藩主の父・島津久光出兵を進言します。というのも、前話の稿で述べたとおり、大久保たち誠忠組はその突出計画を中止する条件として、ひとたび中央で国家の一大事が発生すれば、直ちに全藩あげて国事活動に乗り出すとの約束を取り付けていたからでした。ところが、久光は今回も出兵を拒否します。その理由は、今回の一件は水戸藩脱藩浪士による暴発であって「兵乱」ではなく、しかも、暴発のメンバーに薩摩藩士が関係しており、幕府がどう出てくるかわからない状況で軽々に動くべきではない、とのことでした。大久保は不満ながらも久光の説得を受け入れるしかありませんでした。しかし、この久光の政治判断は正しかったといえるでしょう。その後、大老・井伊直弼亡きあとの幕府は、朝廷、諸藩との協調政策に路線を転じ、井伊襲撃に関する薩摩藩への追求もありませんでした。もし、突出が行われていたら、そうはいかなかったでしょう。


 翌年の文久元年2月18日(1861年3月28日)、幕付老中・久世広周から薩摩藩主・島津茂久に、参勤交代で茂久が国許不在中は父・久光が政務を預かるよう通達されます。これにより幕府より正式に藩政に関与することを認められた久光は、同年4月22日(1861年5月31日)、「国父」と称することを藩内に布告します。かくして久光は事実上、薩摩藩の最高権力者となりました。


e0158128_11283315.jpg 5月には久光の小姓で大久保を久光にとりもった人物・中山中左衛門小納戸に任じられ、小松帯刀が大番頭から側役に昇進しました。小松はのちに大久保ら誠忠組と深く関わってくる人物ですね。そして10月には島津斉興時代の家老・島津豊後(月照と西郷を追放した家老)を罷免し、前藩主の島津斉彬に重用された島津久徴主座家老とします。そして、前述した小松と中山が新任の家老を補佐し、誠忠組の大久保と堀次郎(のちの伊地知貞馨)を小納戸に抜擢します。この新しい久光政権は、大久保ら誠忠組の面々が藩政の中枢に名を連ねるという、彼らにとっては願いがかなった夢の政権の実現だったわけです。この有能な人材を集めた藩首脳で、これから中央政局に乗り出していこうとしていたのです。そこで大久保は久光に、もうひとり、中央に乗り出すにはどうしても必要な人物がいると進言します。西郷吉之助(隆盛)です。


e0158128_15131310.jpg 西郷に帰藩命令が下されたのは、大久保が小納戸になった翌月の文久元年11月21日(1861年12月21日)のことでした。ドラマでの西郷は生涯島民として暮らすことを決意していましたが、実際の西郷は、愛加那と結婚してからもずっと鹿児島に帰ることを切望していました。ただ、島での生活も2年が過ぎたあたりからは、半ばあきらめムードが漂い、大久保に送った手紙でも、「明らめ居り申し候」とか「頓と島人に成り切り」などといった発言が見られるようになります。というのも、この年の1月2日に、西郷にとってはじめての子供である菊次郎が誕生しており、そんな幸せな日々のなかで、このまま島民としてここで静かに暮らす人生も悪くはないかもしれない、と思いはじめていたかもしれません。ところが、歴史は西郷を必要としたんですね。皮肉にも西郷のもとに帰藩せよとの召喚状が届いたのは、愛加那、菊次郎とともに暮らすための新築の家が建って引っ越した翌日のことだったといいます。この召喚状を受けた西郷は、喜んだのか、あるいは困惑したのか・・・。ずっと願ってきたことではあったものの、このイミングの悪さでは、手放しには喜べなかったかもしれません。


 このあと西郷は、奄美大島での最後の正月を妻子と過ごしたのち、文久2年1月14日(1862年2月12日)に島を出帆し、同年2月12日(1862年3月12日)に鹿児島に帰着します。このとき西郷は、生きていることが幕府に発覚しないよう、しばらく大島三右衛門と名乗ることになります。これは、大島にほぼ3年いたという意味が込められた改名でした。



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by sakanoueno-kumo | 2018-06-04 14:52 | 西郷どん | Trackback | Comments(0)