2018年 06月 05日 ( 1 )

 

幕末京都逍遥 その68 「薩摩戦死者墓」

前稿で紹介した長州藩士の墓は相国寺の西側の墓地にありますが、同じく相国寺の東側には、薩摩藩士の墓があります。

ここは、相国寺塔頭・林光院の境外墓地で、相国寺東門を抜けて40mほど東にあります。


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玉垣に囲われた広い敷地の墓所は、門扉に鍵がかかっていて中には入れません。


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敷地内には、中央に大きな墓石が一基あり、その後ろの玉垣の向こうには、たくさんの小さな墓石が見えます。


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中央の墓石には、「甲子役 戊辰役 薩軍戰没者墓」と刻まれています。

「甲子役」とは、元治元年7月19日(1864年8月20日)の「禁門の変」(蛤御門の変)のことで、「甲子(きのえぬ)」とは、十干の「甲」と、十二支の「子」が重なった年の干支のことです。

10と12の最小公倍数、つまり、60年に一度訪れる干支で、西暦年を60で割って4が余る年が甲子の年となります。

元治元年(1864年)は、その甲子の年だったんですね。

後世に伝わる「禁門の変」「蛤御門の変」といった呼び名は、戦を起こした当事者であるのちの明治政府が、この戦いをなるべく小さな局地戦にみせるためにつけた名称で、当時の呼び方では、干支をとって「甲子戦争」「甲子役」といわれたそうです。


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「戊辰役」とは、いうまでもなく戊辰戦争のことで、これも、同じく十干の「戊」と、十二支の「辰」が重なった60年に一度の干支を意味しています。

西暦年を60で割って8が余る年が戊辰の年となります。

といっても、戊辰戦争の場合、慶応3年(1868年)に起きた鳥羽・伏見の戦いから、翌年の函館戦争の終結までの約1年半の戦いを総じていいますから、実際には、戊辰から己巳にかけての戦いなんですけどね。

もっとも、ここの墓所に葬られている戦死者は、おそらく鳥羽・伏見の戦いの戦死者だと思われます。


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ここに眠るのは、甲子戦争の戦死者7名と鳥羽伏見の戦いでの戦死者65名計72名だそうです。

墓石下の基壇部分に埋められている3枚の陶板には、その犠牲者の名前が記されています。

3枚のうち真ん中の1枚が禁門の変での戦死者、野村勘兵衛、野村藤七郎、松下弥七郎、赤井兵之助、宮内彦二、森喜藤太、濱田藤太郎の7名です。

このうち、野村勘兵衛と野村藤七郎という人物は、司馬遼太郎氏の小説『世に棲む日日』新装版(三)の「灰燼」の稿で、名前が出てきます。

以下、抜粋。


長州藩の突撃のすさまじさは、

「賊勢(長州)すこぶる猛烈」

と、会津藩の記録にあるとおりであった。会津は公卿門警備の隊長野村勘兵衛とその部将野村藤七郎がたちまち戦死し、友軍の桑名藩が逃げ出し、慶喜直属の一橋勢も乾御門のほうへ退却し、

「藩兵の守り、ほとんど失わんとす」

と、会津側が記録している。


ん? 小説では会津藩士となっていますね。

まあ、会津藩の記録に載っていたから、会津藩士だと司馬さんも思ったのでしょうね。

司馬さんでも、こんな間違いをするんですね。

ここを参ればわかったのにねぇ。


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敷地内左側(西側)には、大正時代建立の戦没者合同碑もありますが、劣化がひどく、文字は読み取れません。


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禁門の変というと、どうしても長州藩士の犠牲者に目がいってしまいますが、戦争である以上、敵対した薩摩藩士や会津藩士にも犠牲者は当然いたわけです。

そのことを、忘れてはならないですね。




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by sakanoueno-kumo | 2018-06-05 23:56 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)