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2018年 08月 01日 ( 1 )

 

幕末京都逍遥 その105 「島原大門」

江戸時代の京都の花街「島原」にやってきました。

島原は、寛永17年(1640年)もしくはは寛永18年(1641年)に六条三筋町から移転してきた日本初の幕府公認の遊女街です。

正式名称は「西新屋敷」といいましたが、その急な移転騒動が九州の島原の乱の直後だったため、それになぞらえて「島原」と呼ぶようになったそうです。


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現在は花街としての面影はほとんど残っておらず、写真の「大門」と、唯一営業を続けている「輪違屋」、現在は文化美術館となっている「角屋」の3ヵ所だけが、当時の名残を偲ばせています。


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京都の花街は、島原以外に上七軒、祇園甲部、祇園東、先斗町、宮川町の6ヶ所があり、これらを総称して京都の六花街と呼ばれています。

西郷隆盛桂小五郎(木戸孝允)坂本龍馬ら幕末の志士たちも、それぞれ花街に馴染みの遊女がいましたが、ここ島原は、新選組屯所の壬生から近かったこともあって、近藤勇、土方歳三、芹沢鴨ら新撰組の面々が頻繁に通っていました。


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女にモテモテだった土方歳三は、自身でどれだけもてるかを書き綴った手紙も残されているそうで、そこには、島原の花君太夫天神(太夫に次ぐ位の女性)の一元の名前が手紙に記されているそうです。

総長の山南敬助が切腹の直前に格子戸越しに別れを惜しんだという明里も、島原の天神でした。

大正時代まで長寿した永倉新八は、島原の亀屋の芸妓・小常をのちに身請けしてとします。

のちの新選組を離脱して御陵衛士を結成した伊藤甲子太郎は、現在も営業を続けている輪違屋の花香太夫が馴染みだったとか。

まさに、島原は新選組隊士たちのやすらぎの場だったんですね。


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大門の横の見返り柳は、遊廓の入口付近に生えた柳の名称で、島原だけでなく全国の遊郭の入口にあったそうです。

遊廓で遊んだ男が、帰り道に柳のあるあたりで名残を惜しんで後ろを振り返ったことから、この名が付いたのだとか。


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一般に、江戸の遊女街の吉原「遊郭」と呼びますが、京の島原は「花街」といいます。

いずれも色町には違いありませんが、京都の人は島原を「遊郭」と呼ぶことを嫌うそうです。

どっちも同じような気がしますが、このあたりが、京都人の気位の高さってやつですかね。




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by sakanoueno-kumo | 2018-08-01 23:55 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)