2018年 08月 04日 ( 1 )

 

幕末京都逍遥 その107 「輪違屋(島原)」

島原で現在も唯一、茶屋を営業されているのが、輪違屋です。

輪違屋の創業は元禄元年(1688年)、置屋として始まりました。

当時は「養花楼」といったそうです。


e0158128_20483986.jpg


前稿でも紹介しましたが、島原には大きくふたつに分けて「置屋」「揚屋」がありました。

「置屋」は、太夫芸妓に芸を教える教育の場で、お客さんは出入りしません。

「揚屋」は、現代でいう料亭にあたり、置屋から太夫や芸妓を派遣してもらい、遊宴を催す会場です。

輪違屋は「置屋」ですから、ここに、多くの太夫芸妓が所属していたわけです。


e0158128_20484303.jpg


現在の建物は安政4年(1857年)に再建されたものであり、明治4年(1871年)には、ほぼ現在の姿だったそうです。

明治に入ってから置屋だけでなく、茶屋を兼業するようになったそうです。


e0158128_20484703.jpg


輪違屋と聞けば、浅田次郎の小説『輪違屋糸里』が思い出されます。

糸里は輪違屋の天神(芸妓)で、新選組の副長助勤の平間重助の馴染みでした。

平間重助は筆頭局長の芹沢鴨の一派で、芹沢が殺された当日、ともに居合わせた人です。

芹沢らが襲われた夜、糸里は八木邸で芹沢らとともに酒宴を過ごし、その後、芹沢らとは別の部屋で平間とともにに就きました。

皆が寝入った深夜、近藤勇一派の数名が踏み込んできて芹沢らを殺害しますが、別の部屋で寝ていた平間と糸里は難を逃れます。

平間はその後、芹沢派の唯一の生き残りとして明治23年(1890年)まで生きたと伝わります。


e0158128_20552335.jpg


糸里という女性の話は、昭和の初めに作家の子母澤寛八木為三郎(新選組が屯所にしていた八木家の子息)から聞き書きした『新選組遺聞』にでてきます。

しかし、輪違屋に糸里という名の芸妓がいたという記録はないそうで、糸里の素性やその後は一切不明なんだとか。


e0158128_20551261.jpg


輪違屋の入口には、「観覧謝絶」の札が掲げられています。

いわゆる「一見さんおことわり」の店ということですが、もともとは置屋だったわけですから、一見さんであれ常連さんであれ、お客さんが出入りする場所ではなかったはずなんですが。

店内には、いまも近藤勇書の屏風や桂小五郎(木戸孝允)書の掛軸があるそうです。


e0158128_20564923.jpg


現在は揚屋と置屋を兼ね備えたお茶屋として、日本で唯一、現役の「如月太夫」を抱えて営業されています。

死ぬまでに一度、客として行ってみたいものです。

誰か連れてってください。



「幕末京都逍遥」シリーズの、他の稿はこちらから。

 ↓↓↓

幕末京都逍遥


ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓


by sakanoueno-kumo | 2018-08-04 00:31 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(0)