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2018年 08月 06日 ( 1 )

 

西郷どん 第29話「三度目の結婚」 ~西郷の一時帰国と結婚~

e0158128_11283315.jpg 西郷吉之助(隆盛)の奮闘によって、第一次長州征伐は戦に発展せずに終結しましたが、これを最も喜んだのは、鹿児島の国元にいた島津久光・忠義父子でした。その理由は、戦を回避したことで兵や戦費を損なわずに済んだことも大きいですが、薩英戦争の経験により欧米列強の力を存分に知らしめられた久光は、いまここで内乱を起こすことで欧米諸国の国政への介入に発展しかねないという懸念を抱いていたからでした。一説には、西郷の長州藩に対する寛大な処置は、久光の指示だったのではないかとも言われます。ドラマでは、諸手を挙げて賛美していた忠義に対して、仏頂面で気に食わなそうだった久光でしたが、実際には、久光もこのたびの西郷の働きは大いに評価しており、これまでの西郷に対する不平不満がいくぶんか和らいだといいます。


e0158128_15131310.jpg 元治2年1月15日(1865年2月10日)、鹿児島に帰国した西郷に対して、久光・忠義父子から感状が授けられました。これにより、藩内での西郷の名声はさらに増すことになります。しかし、一方で、藩外では必ずしも評価は高くありませんでした。長州藩への寛大な処置が事実上西郷の建言を受け入れたものだったということが世間に知られるにつれ、西郷が長州藩に恩を売り、長州藩と手を組んで討幕を考えているのではないかという疑惑の声が、幕府からも雄藩からも囁かれ始めます。実際に薩長同盟が結ばれるのはこれより1年後のことですが、薩長同盟といえば坂本龍馬中岡慎太郎が着想した電撃的な同盟だったかのように描かれることが多いですが、実際には、この頃からすでに世間から注目されていたんですね。


 ドラマで、幕府からの参勤交代の復活命令に久光が激高していましたが、少し説明しておくと、文久2年(1862年)に久光が兵を率いて江戸に赴き、幕政に介入した文久の改革において、これまで隔年だった参勤交代の頻度を3年に1回の3ヶ月とし、同時に、これまで人質として江戸に住んでいた大名の妻子についても帰国を許すという規制緩和を実現していました。久光初の政治行動において最大の功績だったわけですが、ここに来て幕府は、禁門の変で朝廷を掌握したことで頭に乗ったのか、制度を元に戻そうとします。しかし、この命令に従わない藩が多く存在したため、結果的に幕府の威信の低下を露見することとなります。


 ちなみに余談ですが、ドラマ中、「幕府」とか「藩」といった呼称が頻繁に出てきますが、実際には、この時代はまだこの言葉はほとんど一般に馴染みはなく、幕府をさす公用語「大公儀」、藩は「お国」とか「ご領国」と呼んでいました。したがって「討幕」という言葉も存在しません。「幕府」「藩」という言葉が公用語となったのは、明治に入ってからのことです。


e0158128_22241961.jpg さて、今話のメインは西郷の嫁取りでした。西郷が3度目の結婚をしたのは、元治2年1月28日(1865年2月23日)、帰国してから約2周間後のことでしたから、あるいは、帰国前から縁談が進んでいたのかもしれませんね。お相手は家老座書役岩山八郎太の次女・糸(糸子)。ドラマでは幼馴染の設定ですが、実際には15歳ほど年の差がありますから、ちょっと無理があるでしょうね。西郷家と岩山家では、家格でいえば岩山家のほうが上でしたが、禁門の変の功によって西郷家の家格が引き上げられたため、それを機にこの縁談が成立したと考えられます。一般に、糸は再婚だったと言われ、今回のドラマでもそう描かれていますが、この説は、確たる史料が存在しないようで、事実かどうかはわからないようです。ドラマでは、子供が出来ずに離縁されたと言っていましたが、こののち、糸と西郷との間には3人の子宝に恵まれることになります。


 こうして祝言を挙げた西郷と糸でしたが、落ち着く間もなく西郷は福岡に出張を命じられ、2月6日に鹿児島を発ちます。2人の新婚生活は、わずか1週間で終わります。



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by sakanoueno-kumo | 2018-08-06 22:25 | 西郷どん | Trackback | Comments(0)