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2018年 08月 07日 ( 1 )

 

幕末京都逍遥 その109 「新選組不動堂村屯所跡~不動堂明王院」

西本願寺の屯所を出た(追い出された?)新選組は、西本願寺から500mほど南の不動堂村に移転します。

現在、リーガロイヤルホテル京都の敷地内には、その跡地を示す石碑と説明板があります。


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石碑には、新選組のシンボルである「誠」の文字と、「事あらばわれも都の村人となりてやすめん皇御心」という近藤勇の歌が刻まれています。


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慶応3年6月10日(1867年7月11日)、新選組はこれまでの働きが認められて、会津藩預かりから隊士全員が幕臣となり、局長の近藤は御目見得以上の格(三百俵旗本)となります。

文字通り、近藤は幕府代表者の一員となったわけですが、このときから4ヶ月後に大政奉還が宣言されて幕府がなくなるわけですから、後世から見れば、貧乏くじを引いたようなものでした。

しかし、当時の近藤は、そんなことは露ほども思わなかったことでしょう。

近藤勇の甥で新選組隊士だった宮川信吉の書簡によれば、その5日後の6月15日、新選組は新しい不動堂村屯所に入所しています。

移転に際し、土方歳三の指示で吉村貫一郎が西本願寺と交渉の末、建築費・諸経費を西本願寺が負担することとなったそうです。

まあ、西本願寺にすれば、金払うから出ていってくれってことだったのでしょうが。

ちなみに吉村貫一郎というと、浅田次郎の小説『壬生義士伝』の主人公ですね。


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説明板によると、屯所の広さは約1万㎡あったそうで、表門、高塀、玄関、長屋、使者の間、近藤、土方ら幹部の居間、平隊士の部屋、客間、馬屋、物見中間と小者の部屋、大風呂は30人が一度に入れるほどあったといわれ、大名屋敷と比べても遜色ない構えだったとあります。


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リーガロイヤルホテル京都から東へ200mほどのところにあるホテル「ハトヤ瑞鳳閣」の前にも、不動堂村屯所跡の石碑があります。


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石碑には「此付近 新撰組最後の洛中屋敷跡」と刻まれています。


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こちらの説明板によると、屯所の位置については、上述した宮川信吉の書簡に「七条通下ル」と記されていること、また、永倉新八の手記に「七条堀川下ル」とあることから、この付近であることは確実であるものの、厳密な場所や規模、建物構造などについては信用に足る史料が少なく、不明だとしています。

また、価値の低い記録による復元・叙述は、極力さけなければなりません・・・とも。

まるで、詳細に建物構造や規模を記したリーガロイヤルホテル前の説明板を批判しているかのような記述ですね。


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リーガロイヤルホテルとハトヤ瑞鳳閣のちょうど中間あたりに、不動堂明王院という小さなお寺があり、その正面には、「誠」の文字と「新選組まぼろしの屯所」と書かれた提灯がかけられていました。


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この不動堂明王院が屯所にあてられたのではないか、という説もあるんだそうですが、でも、なんで「まぼろし」なんでしょうね。

この辺りに屯所があったことは史実ですから、べつに幻ではないんじゃないかと・・・。


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新選組が不動堂村に屯所を構えたのはわずか6ヶ月でしたが、その間に、大政奉還があり、その後、王政復古の大号令が発せられ、新選組は5年間過ごした洛中をあとにし、鳥羽・伏見の戦いに向かいます。

現在もこの辺り一帯の住所は「南不動堂町」といい、往時を偲ばせてくれます。




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by sakanoueno-kumo | 2018-08-07 23:59 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)