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2018年 08月 13日 ( 1 )

 

西郷どん 第30話「怪人 岩倉具視」 ~岩倉具視の蟄居生活~

500円札の肖像で知られる岩倉具視が主人公の回でしたね。ドラマ中、自身をヤモリと卑下していましたが、実際に、当時、岩倉は「守宮(やもり)」あだ名されていました。すばしこくて出没を予測できない策謀ぶりを評したあだ名だったようですが、当時の軟弱な公家のなかで、珍しく智謀と胆力を兼ね備えた人物だったといいます。


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文政8年(1825年)に参議正三位・堀河康親の次男として生まれた岩倉は、天保9年(1838年)に公卿・岩倉具慶の養子になります。安政元年(1854年)には孝明天皇(第121代天皇)の侍従となり、次第に朝廷内において台頭し、発言力を増してきました。


若き日の岩倉は攘夷派で、幕府の推し進める日米修好通商条約の調印に反対して「廷臣八十八卿列参事件」の中心人物となりますが、その後、幕府との調和の必要性を悟り、公武合体をすすめるため、孝明天皇の妹・和宮親子内親王の将軍家への降嫁を推進ます。このとき岩倉は、将軍・徳川家茂から直筆の誓書を提出させることに成功し、孝明天皇から直々にその功労を労われました。岩倉の推し進めた公武合体は、あくまで朝廷主導の公武合体であり、一貫して朝廷権威の高揚に努めていたのですが、ところが、尊皇攘夷派は岩倉を佐幕派の巨頭と見るようになり、尊攘派の圧力によって失脚に追い込まれます。


文久2年(1862年)8月に蟄居処分となって朝廷を去った岩倉は、落飾して西賀茂の霊源寺や洛西の西芳寺に身を隠しますが、同年10月に長男の岩倉具綱が洛北の岩倉村に住居を用意してくれたので、移り住みました。以降、洛中への帰参が許される慶応3年(1867年)11月まで、岩倉村で5年間も蟄居生活を送ることとります。


e0158128_17375658.jpg 岩倉がふたたび政治活動をはじめたのは、慶応元年(1865年)秋ごろから、つまり、ドラマのこの時期からでした。この頃になると、薩摩藩や朝廷内の同志たちが再び岩倉のもとへ訪れるようになります。ドラマ中、西郷吉之助(隆盛)が箱の中に眠っていたたくさんの意見書を見つけて感嘆するシーンがありましたが、これは、おそらくこの時期の岩倉が書いた『叢裡鳴虫』という政治意見書のエピソードを下敷きにした話でしょう。岩倉はこの意見書を来訪した薩摩藩士の井上石見に託し、大久保一蔵(利通)小松帯刀の意見を求めました。西郷はいません。この時期、岩倉と熱心に接していたのは大久保で、西郷と岩倉の接点は薄く、むしろ、どちらかといえば西郷は岩倉を苦手としていたようです。


 岩倉の示した意見書『叢裡鳴虫』は、「草むらに隠れて鳴く虫」を例えた題名で、自身の置かれた境遇を表した言葉ですが、その内容は、公武一和を説いたものでした。このなかで岩倉は、島津久光の偉材であることをたたえたうえで、先の禁門の変後の長州藩の処遇について、薩摩藩がイニシアティブをとって寛大な処置をすべきだと説いています。そして注目すべきは、薩長両藩が手を結び、朝廷と協力すべきだと説いていることです。岩倉は洛北のあばら家で蟄居生活を送りながらも、すでに薩長同盟の必要性を感じていたんですね。ただのヤモリではなかったということです。


 ちなみに、ドラマ中、岩倉が開いた賭場に乞食に扮した桂小五郎が列席していましたが、もちろん、これはドラマの創作であり、ありえない設定です。この時期、桂は但馬の出石藩で商人に扮して潜伏していました。どうも、このドラマでは必要以上に桂と西郷の接点を作りたいようです。それは、今後のドラマの展開の伏線なんでしょうか。


 ちなみにちなみに、岩倉と西郷は、実は2歳しか変わりません。老獪な策謀家というイメージでのキャスティングだったのでしょうが、ちょっと無理があったような気がしないでもないですね。



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by sakanoueno-kumo | 2018-08-13 01:20 | 西郷どん | Trackback | Comments(0)