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2018年 08月 15日 ( 1 )

 

幕末京都逍遥 その114 「泉涌寺・孝明天皇陵(後月輪東山陵)」

東山にある泉涌寺を訪れました。

泉涌寺は、歴代天皇家の菩提所で、鎌倉時代の四条天皇(第87代天皇)以来14代の天皇陵をはじめ、皇妃、親王陵墓など39の陵墓があります。


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大門は慶長年間(江戸時代初頭)造営の御所の門を移築したもので、重要文化財です。


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こちらは、江戸幕府4代将軍徳川家綱によって再建されたという仏殿

重要文化財です。


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こちらは御座所

建物内には、天皇皇后が来寺した際に休息所として使用する玉座の間があります。

今上天皇も在位中に3度、ここを訪れて玉座の間を使用されたそうです。


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ここを訪れたのは平成29年(2017年)11月20日で、御座所の庭園は見事に紅葉が色づいていました。

せっかくなので、アップします。


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そして、こちらが境内の奥にある月輪陵

四条天皇(第87代天皇)をはじめ後水尾天皇(第108代天皇)から仁孝天皇(第120代天皇)までの25陵、5灰塚、9墓が営まれています。


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こちらがその一覧です。


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門の横の道を進むと、月輪陵内が見渡せます。

九重塔が各天皇の陵だそうです。

圧巻です。


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月輪陵のさらに背後に、後月輪東山陵と呼ばれる孝明天皇(第121代天皇)陵があります。

幕末シリーズなので、ここからが本題です。


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天保2年(1831年)生まれの孝明天皇は、弘化3年2月13日(1846年3月10日)から慶応2年12月25日(1867年1月30日)まで、約21年弱の間、在位していました。

まさに、「幕末」と言われる時代は、孝明天皇の時代だったといえるでしょう。

この孝明天皇が大の外国人嫌いだったことで、それまであった「攘夷論」「尊王思想」という本来別々だったものが結びつき、「尊王攘夷」というスローガンが生まれました。

これが、やがて討幕の導火線となっていくのですが、当の孝明天皇自身は、攘夷論であっても佐幕派であり、公武合体論でした。

このあたりに、幕末のややこしさが生じるんですね。


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孝明天皇の死については、暗殺説がかなり流布していたようです。

従来の定説となっている病状を見ると、亡くなる半月ほど前の12月11日、風邪気味であった孝明天皇は、宮中で執り行なわれた神事に医師たちが止めるのを押して参加し、その翌日からひどく発熱します。

12日、13日と熱は下がらず、14日に診察した医師によると、「痘瘡(天然痘)か陰症疫の疑いあり」と診断されます。

睡眠も食事も満足にとれず、うわ言を発し、16日になると全身に発疹があらわれ、17日正式に痘瘡と公表されました。

そこで七社七寺への祈祷が命じられ、将軍以下、京都守護職松平容保らも見舞いに参内したようです。

翌18日以降、少しずつ病状は回復に向かっていたのですが、24日夜から病状が急変し、翌25日の公卿・中山忠能の日記に「何共恐れ入り候御様子」と書かれるほどの病状となります。

嘔気をもよおし、は多く、しだいに体力を失い、脈も弱まり、25日亥の刻(午後11時ごろ)に、ついに崩御となりました。


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このような病状の急変が、さまざまな風説を生む原因となったようです。

なかでも多くささやかれたのが毒殺説

専門家によると、何かに中毒したことによる急死の症状に酷似しているらしく、毒を盛られた可能性は否定出来ないとのことです。

もっとも、当然のことながらそれを立証できる証拠はなにもなく、全ては憶測に過ぎません。


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ただ、当時このような風説が流布される客観的な条件はじゅうぶんそろっていました。

この当時、政局は混沌としており、公武のトップである天皇と将軍の死は(この5ヶ月前には、江戸幕府第14代将軍・徳川家茂も急逝していた)、佐幕派、倒幕派ともに大きな政治的意味があったことはいうまでもありません。

当時、日本に駐在していたイギリスの外交官・アーネスト・サトウが後年に書いた日記でこう述べています。


「当時の噂では、帝の崩御は天然痘によるものだと聞いていたが、しかし数年後、その間の消息によく通じているある日本人が、わたしに確言したところによれば、帝は毒殺されたのだという。この帝は所信をもって、外国人に対していかなる譲歩にも断固として反対してきた。そのために、きたるべき幕府の崩壊によって、否が応でも朝廷が西欧諸国と直接の関係に入らざるを得なくなることを予見した人々によって、殺されたというのだ。この保守的な帝がいたのでは、戦争を引き起こすような事態以外のなにものも期待できなかったであろう。重要な人物の死因を毒殺に求めるのは、東洋諸国ではごくありふれたことであり、前将軍(家茂)の場合にも、一橋のために毒殺されたという噂が流布した。しかし当時は、帝についてそのような噂は聞かなかった。帝が、ようやく15、6歳になったばかりの少年(睦仁親王)を継承者に残して、政治の舞台から姿を消したということが、こういう噂の発生にきわめて役だったであろうことは否定できない」


これによると、倒幕派が攘夷論者である孝明天皇を毒殺したということになりますね。

攘夷論では朝廷が外国と関係を持つようになっては大障害になるという観点からの毒殺説ですが、イマイチ理由としては弱い気がします。

それよりも、佐幕派の天皇では、倒幕を遂行するにはどうにも邪魔である、というほうがまだ説得力がある気がします。

事実、岩倉具視がこれを画策したという風説があります。

岩倉具視の義妹である堀河紀子が宮中女官として入っており、その紀子を操って痘瘡の薬のなかに毒物を混入させた・・・と。

もちろん風説であって、岩倉にしてみれば迷惑千万なはなしかもしれませんが、岩倉の場合それ以前の和宮降嫁問題のときにも、天皇毒殺をはかったという評判がたったことがあった人物で、疑惑の目で見られたのも無理はなかったかもしれません。


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薩摩藩士・大久保利通は、「玉(天皇)をわが方に抱えることが、千載の一事で、もし幕府に奪われては藩の滅亡」としていました。

天皇を味方につけた方が勝つということですね。

しかし、ときの天皇である孝明天皇は、はっきりとした政治的発言をおこない、しかもそれは佐幕説でした。

倒幕派にとっては、孝明天皇は邪魔な存在で、その死が倒幕派にとって有利なことであったのは明らかでした。

だからこそ毒殺説が生まれたのでしょう。

実際に毒殺が行なわれたのか、あるいは本当に痘瘡による病死だったのか、今となっては真相は闇の中ですが、いずれにせよ、孝明天皇の死が倒幕派を大きく勢いづかせたことは間違いありません。

古代・中世はさておき、孝明天皇は日本の近世以降の天皇のなかで、珍しく政治的行動・発言をおこなった、ただひとりの天皇といえるかもしれません。

そのため、36歳の若さでこの世を去ることとなってしまった・・・かどうかは定かではありませんが・・・。




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by sakanoueno-kumo | 2018-08-15 23:41 | 幕末京都逍遥 | Trackback | Comments(4)