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2018年 08月 19日 ( 1 )

 

幕末京都逍遥 その116 「智積院(土佐藩本陣)」

東山七条の三十三間堂のすぐ東にある、智積院を訪れました。

ここは、幕末、土佐藩の本陣が布かれた場所です。


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智積院は、真言宗智山派の総本山で、全国に3000余りの末寺があります。

もとは紀州根来山の学頭寺智積院でしたが、豊臣秀吉焼打ちに遭い、学頭玄宥僧正が難を京都に避け、のちに徳川家康の帰依を受けて慶長6年(1601年)に豊国神社境内の坊舎と土地を与えられ、智積院を再興したそうです。


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現在でも、広大な敷地を有しています。


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幕末、安政の大獄によって江戸で隠居していた前土佐藩主の山内容堂は、文久3年(1863年)に幕命によって上洛しました。

その際、勅命によって智積院が土佐藩の本陣となります。


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このとき、金堂、勧学院、大仲などの主要建物はすべて土佐藩士の宿舎になりました。

こちらがその金堂。

もっとも、現在の金堂は昭和50年(1975年)に建て直されたものです。


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文久2年(1862年)当時、京都での土佐藩の勢力は、武市半平太を首魁とする土佐勤王党が幅を利かせていました。

文久3年正月26日(1863年3月15日)に上洛した山内容堂は、土佐勤王党の台頭に露骨に不快感を示し、半平太をのぞく勤王党志士に対して他藩士との政事交際を禁じる通達を出し、京都で他藩応接役を務めていた平井収二郎間崎哲馬に対し、「僭越の沙汰である」と激怒して罵倒し、両名とも罷免した上で土佐へ送還させました。

その後、土佐に帰った容堂は、土佐勤王党への大弾圧を開始します。


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その後も智積院は幕末を通して土佐藩の陣所として使用されました。

明治2年10月4日(1869年11月17日)には、土佐藩陣所の主要建物である勧学院建物内に保管されていた弾薬が爆発し、勧学院、大仲会所が焼失したそうです。

発火原因はわかっていません。


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そしてその翌年の明治3年(1870年)3月、智積院はようやく土佐藩から返還されました。その退却時、土佐藩は1140円を智積院に支払っています。

まあ、迷惑料ってとこでしょうか?

現代の価値でいえば1千万円以上になると思いますが、7年間の家賃としては、ちょっと安い気がしますね。




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by sakanoueno-kumo | 2018-08-19 10:42 | 幕末京都逍遥 | Comments(0)