人気ブログランキング |

2018年 08月 21日 ( 1 )

 

西郷どん 第31話「龍馬との約束」その2 ~西郷すっぽかし事件~

 昨日の続きです。

 このとき西郷吉之助(隆盛)坂本龍馬を同行して鹿児島に帰国したのは、幕府からの征長出兵命令を拒否する藩論をまとめるためでした。この少し前に西郷が国元に宛てた報告書のなかに、つぎのような文章があります。


「いつ迄も共和政治をやり通し申さず候ては、相済みまじく候間、能々(よくよく)御勘考下さるべく候。若(もし)、此策を御用ひこれなく候はゞ、断然と割拠の色を顕はし、国を富すの策に出でず候はでは相済申すまじき候義と存じ奉り候。」


 文中、「割拠」という言葉が使われています。「割拠」とは、戦国時代で言うところの群雄割拠のようなもので、つまり、幕府から独立して藩単位での独立国家化の方針のようなものと考えていいでしょう。「倒幕」といった過激な言葉はまだ出てきませんが、明らかに幕府を見限り始めていたことがわかりますね。そして、もう一藩、幕府を見限って「割拠」しようとしていた藩がありました。長州藩です。長州藩の場合、すでに事実上「割拠状態」といっても良かったでしょう。となると、「割拠」を藩論としていた薩摩と長州が手を結べば・・・という機運が高まり始めるんですね。のちの薩長同盟締結が、坂本龍馬と中岡慎太郎がやってのけたアクロバット的な芸当のように描かれることが多いですが、実はそうではなく、誰もが着想できた自然な流れだったといえるでしょう。彼らは、単にその橋渡し役として歴史に選ばれたに過ぎなかったわけです。


e0158128_17092730.jpg 薩長の手を結ばせるために奔走し始めた中岡たちは、西郷が上京する際、何としても下関に立ち寄らせようと考え、中岡が鹿児島に赴いて西郷を説得し、龍馬と土佐藩士の土方楠左衛門(久元)の二人は下関で桂小五郎(木戸孝允)を説得します。しかし、桂は容易に受け入れません。当然のことでした。そもそも、長州が瀕死の状態にあるのは、薩摩が土壇場で会津と組んだからで、長州人からすれば、薩摩人は恨んでも恨みきれない相手だったからです。前年の禁門の変以来、長州藩兵は履物に「薩賊会奸」などと書きつけて踏みつけるようにして歩いたとされ、その遺恨は藩全体に浸透していました。そんな中、薩摩と手を組むことを承諾したとなれば、長州藩内で桂が命を狙われかねません。しかし、このまま何も手を打たなければ長州藩は立ち行かなくなるということも、桂は十分にわかっていました。そんな桂だからこそ、龍馬は説きに説き、ようやく納得した桂は、下関で西郷を待つと約束し、龍馬とともに慶応元年(1865年)閏5月21日まで待ちます。


ところが、下関に姿を表したのは、顔面蒼白となった中岡ひとりでした。西郷は来なかったんですね。ドラマでは、中岡の要請を鹿児島にいた時点で丁重に断り、その名代として有村俊斎(海江田信義)に書状を託して下関に向かわせていましたが、史実は違います。西郷は確かに中岡の説くところを了承して下関へ向かったのですが、閏5月18日、佐賀まで来たとき、急に「幕府征長に反対する朝議を固めるのが先決」と言い出し、中岡がいくら説得しても断固として動かず、中岡を佐賀に下ろし、京へ直行してしまいました。有名な西郷のすっぽかし事件です。なんでドラマでは変えちゃったんでしょうね。


e0158128_15131310.jpg 西郷がすっぽかした理由については、明快な史料が残っておらず、ことの真相は謎のままです。たしかにこの時期、幕府14代将軍・徳川家茂が大軍勢を率いいて上洛しており、長州再征をめぐる動きが緊迫していたのは事実でした。しかし、歴史家さんなどの見解によれば、ぐさま西郷が上洛しなければならないほど急を告げる情勢でもなかったと説きます。では、なぜ西郷は突然すっぽかしたのか。龍馬とともに桂を説得した土方の回顧談によると、このとき西郷の説得にあたっていた中岡は、西郷を「ようやく納得させて」下関に向かわせたといいます。この「ようやく」というのが事実なら、この時点では、西郷は長州と手を結ぶことにそれほど積極的ではなかったということになります。長州と手を結ぶとなると、藩主父子の承諾も取り付けなければなりません。きっとそれは、容易ならざることだっただろうと想像できます。そんなこんなで、一旦は押し切られて承諾したものの、途中で煩わしくなったのかもしれませんね。まあ、わかるような気がしないでもないです。


 ただ、結果として下関で待っていた桂と龍馬は、文字通り「待ちぼうけ」を食らってしまいました。桂が激怒したのはいうまでもありません。この西郷すっぽかし事件によって、薩長同盟計画は振り出しに戻ります。


 薩摩と長州が手を結ぶには、もう少し時間が必要だったのでしょうね。これまでの歴史を鑑みると、中岡や龍馬も、少し事を急ぎ過ぎたのかもしれません。薩摩と長州はまだ「和解」もしていなかったわけですからね。その「和解」を飛び越え、いきなり「提携」すなわち「同盟」に進もうとしたわけで、これが失敗だったといえるかもしれません。薩長が手を結ぶまでには、まだあと8ヵ月ほどの時間が必要でした。



ブログ村ランキングに参加しています。
よろしければ、応援クリック頂けると励みになります。
   ↓↓↓



by sakanoueno-kumo | 2018-08-21 23:45 | 西郷どん | Trackback | Comments(6)