2018年 08月 28日 ( 1 )

 

西郷どん 第32話「薩長同盟」その2 ~薩長盟約~

 昨日の続きです。

 慶応2年1月21日(1866年3月7日)、小松帯刀寓居の「御花畑御屋敷」において、薩長同盟が成立しました。これまで何度も大河ドラマで描かれてきた薩長同盟のくだりですが、今回もいつもどおりの通説に沿った設定で描かれるのかと思いきや、坂本龍馬が最初から同席していたり、いるはずのない伊藤俊輔(博文)がいたり、大山格之助(綱良)有村俊斎(海江田信義)が怒鳴り込んできたりと、トンデモな展開でしたね。今までにない薩長同盟を描こうという趣旨だったのかもしれませんが、ちょっとやり過ぎだったんじゃないでしょうか。大事な回ですからね。なので、ここでは通説に沿って解説します。


e0158128_21461967.jpg 慶応2年(1866年)1月8日、京都で薩摩と長州の会談が始まります。薩摩側は小松帯刀、桂右衛門、島津伊勢の3家老と、西郷吉之助(隆盛)、大久保利通、吉井幸輔、奈良原繁らの出席がわかっていますが、長州側は桂小五郎(木戸孝允)ひとりでした。この席には、坂本龍馬中岡慎太郎土方楠左衛門(久元)もいませんでした。ここまで斡旋したのだから、あとは当事者同志に任せるといったところだったのでしょう(お見合いみたいですが)。ところが、会談が始まって10日が過ぎた1月20日、京に入った龍馬は愕然とします。協定はまとまらぬまま、桂は帰ろうと身支度をしていたのです。桂がいうには、西郷らは毎日接待に気を使い、ご馳走攻めにはするものの、一言も両藩の協定について口火を切ろうとしない・・・とのこと。「ならば、なぜ長州から口火を切らぬ。」と龍馬が尋ねると、「それは出来ぬ。」と桂はいいます。曰く、両藩の立場が違う・・・と。その理由を後年の桂の回顧録『木戸孝允自叙ノ要領』から抜粋すると、

「薩州ハ公然天子ニに朝シ、薩州ハ公然幕府ニ会シ、薩州ハ公然諸侯に交ル」と。
 つまり、合法的に天子とも幕府とも諸侯とも交われる立場の薩摩に対して、孤立無援の長州から協定の口を開くということは、助けてくれというのと同じだ・・・というんですね。これを聞いた龍馬は激怒します。いつまで「藩」の体面にこだわっているのか、と。
 「拙者らが両藩のために寝食を忘れて奔走するのは、決して両藩のためではない。一意国家を思えばこそだ。しかるに貴兄らは足を百里の外に労し、両藩の重役相会しながら今日まで為す事もなく日を送るのは、はなはだ心得ぬことではないか。」と。
 のちに龍馬は、亀山社中の中島作太郎に、「おもえば自分は生まれてこのかた怒ったことがなかった。しかしあのときばかりは、度を失うほどに腹が立った。」と語っています。

e0158128_14540330.jpg 桂は龍馬の怒りを理解できなくはなかったでしょうが、感情がそれを許さなかったのでしょう。感情は理屈ではありません。これまでの長州人の苦しみを考えれば、理屈ではどうにもならない意地がありました。その意地を貫くためなら、長州は滅んでもかまわない・・・とまで桂はいいます。
「薩州、皇家ニ尽スアラバ、長州滅スルトイヘドモ亦天下ノ幸ナリ」と。
 長州は面目にこだわりはしたが、「天下」のことを考えていないわけではない。薩摩が生き残り、皇国のために奮闘してくれるならば、長州は滅んでもかまわない、と。この言葉を聞いた龍馬の態度は、また『木戸孝允自叙ノ要領』の文章を借りると、
「龍馬、黙然タルコト稍久シク、桂ノ決意牢固トシテ容易ニ動カスベカラザルヲ察知シ、マタ敢ヘテ之ヲ責メズ。」とあります。

龍馬は桂の立場を理解しました。

 その足で龍馬は、西郷のもとに駆けつけます。薩長両藩の提携は、その目前に際して、感情の整理が必要だったんですね。龍馬は西郷に対して、薩摩と長州のおかれた立場があまりにも違いすぎることを説きます。そして、この期に及んでなおも藩の体面と威厳を保とうとする薩摩を責めました。西郷は龍馬の説くところを理解します。そして翌日、もう一度桂と会い、西郷から長州との提携の議をもちだしました。同席したのは、薩摩側から西郷、小松、長州側から桂、そして仲介人として龍馬の4人でした。


e0158128_15131310.jpgこれが、これまで通説となっている薩長同盟の経緯ですが、ただ、この話は、桂が後年に語った回顧録のみを史料としたものであり、史実かどうかはわかりません。木戸が多少話を盛っているかもしれませんしね。また、薩長両藩とも互いのメンツにこだわって同盟話を切り出さずに暗礁に乗り上げかけたときに、遅れて来た龍馬が西郷一喝し、同盟が成立したという話がよく知られていますが、これも、「西郷を一喝した」という記録はどこにも存在せず、木戸の回顧録にもありません。後世の脚色のようですね。龍馬が遅れて来たのは事実で、龍馬が来てからすぐに同盟が成立したのも事実ですから、龍馬が同盟の成立に何らかの役割を果たしたのは事実かもしれませんが。


また、一般に、薩長同盟の締結によって薩摩・長州両藩がともに幕府に対抗することを確認し、明治維新に向けての大きな転換点となった重大な同盟という認識ですが、実は、歴史家の間では、この同盟は薩長間に大きな温度差があったのではないか、と見られています。というのも、それほど重要な会談でありながら、その内容はその場で記録されず、正式な盟約書も残されていません。ドラマでは薩長の間で合意文書が交わされていましたが、あれはドラマの創作です。現在伝わっている6ヶ条の内容は、会談の翌日に木戸孝允が、同席していた坂本龍馬に宛てて確認のために送った書簡によるもので、その書簡の裏面に木戸の要請で龍馬が朱書をしたものだけです。そのことから、長州側にとっては、この会談の持つ意味は大きかったものの、薩摩側からすれば、「同盟」というほど大袈裟なものではなく、単に意思確認をしただけだったのではないか、とも見られ、しかし、会談による何らかの成果を持ち帰りたかった木戸が、書簡に龍馬の裏書きを求めたのではないか、と考えられています。確かに、正式な盟約書が存在したのなら、龍馬の朱書きなんて必要ないですもんね。そんな観点から、「同盟」といわれるだけの内実を有していないという理由から、学会では「薩長盟約」という表現が用いられています。


薩長間の温度差はあったかもしれませんが、この同盟(盟約)によって幕末の歴史が大きく動いたことは間違いありません。歴史はいよいよ「倒幕」の道をたどることになります。



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by sakanoueno-kumo | 2018-08-28 22:59 | 西郷どん | Trackback | Comments(0)