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2019年 03月 01日 ( 1 )

 

越前松平家の福井城跡を歩く。 その3 ~天守台~

「その2」の続きです。

福井城本丸跡県庁庁舎県警本部の間の通路を北に進むと、本丸跡北西の隅に天守台跡が残ります。


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天守台です。


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天守台登り口の案内板には、天守の絵図が紹介されています。


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こちらは天守台案内図。

この上に天守台があるようですから、ここは天守郭といった方が正しいでしょうか。


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残されている天守絵図によれば、外観は4層ですが、最下層の階高を高くとって二階分の床を張っており、内部が5階になっています。

高さは約28mあり、天守を含めると約37mに及ぶ壮大な姿を誇っていました。


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天守の外壁は白漆喰総塗籠仕上げだったそうで、最上重には、外廻縁高欄と西面に向唐破風があり、元和大坂城天守(徳川秀忠によって普請された大坂城)に見られるような配置に破風が並べられていたとされます。


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かつて柴田勝家の築いた北ノ庄城の跡地に、福井藩の初代藩主として越前に入国した結城秀康が福井城の築城を開始したのは慶長六年(1601年)、それから約6年の歳月をかけて、雄大な城郭を築きました。

完成した城の敷地面積は2km四方に及んだといいます。


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天守台の外周をめぐってみます。


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石垣は横のラインが通った「布積み」と呼ばれる「切込接ぎ」の工法で、これは当時、第1級の城だった二条城江戸城などと同じ積み方です。

さらに福井城の石垣の特徴としては、すべて足羽山の笏谷石という同じ石が使われていることで、石が小さく、運びやすく加工しやすい「切り石」ばかりが使用されているそうです。


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天守台の北半分には大きな礎石が並んでいます。

おそらくここに天守があったのでしょう。


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この壮大な天守は、寛文9年(1669年)4月の大火によって焼失してしまいます。

このときの火災の被害は甚大で、侍屋敷379軒町家2,672軒が天守とともに焼失したと伝えられます。


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天守台の向かいにある小天守台(控え天守台)です。

傾いているのは、昭和23年(1948年)6月28日の福井大地震での被害だそうです。


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その3年前の昭和20年(1954年)7月19日には福井大空襲で市街の95%が破壊され、その復興まもないときに、今度は震災に見舞われ、福井市街は壊滅的な状態になったそうです。

この度重なる苦難を乗り越えて蘇った福井市を、「不死鳥のまち」と呼ぶそうです。

だから、福井市のメインストリートを「フェニックス通り」と呼ぶんですね。

なるほど。


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天守台の片隅には、「福の井」と呼ばれる井戸があります。

この井戸は、慶長6年(1601年)の築城当時からあった井戸と考えられているそうです。


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福井藩の正史である「越前世譜」「北庄を福井と御改候事(天守之傍ニ福井と云

名井有、其名ニ依而被改之)」とあるそうで、名井「福の井」「福井」の名の由来になっ

たという説も生まれたそうです。

しかし実際は、寛永元年(1624年)、福井藩第3代藩主の松平忠昌「北ノ庄」の名は敗北につながるとして「福居」に改名し、それが1700年頃に「福井」となったと考えられています。


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さて、天守台まで制覇しましたが、もうちょっと福井城周辺をめぐってみます。

「その4」に続きます。


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by sakanoueno-kumo | 2019-03-01 07:47 | 福井の史跡・観光 | Comments(0)